やればできる幻想
どうも三日坊主です!
先日RIZINという格闘技団体の試合がありました。
メインイベントの朝倉選手対クレベル選手は話題性抜群で新聞の一面にもなりました。
結果を言うとクレベル選手の一本勝ちでした。
朝倉選手は人気も高いので、ショックを受けた人も多いと思います。
興味深かったのは朝倉選手の試合後インタビューでした。
朝倉選手は「自分の幻想を打ち砕かれた。自分にがっかりしている。」
というようなことを言っていました。(だいぶざっくり尚且つ私の印象ですみません)
朝倉選手についてちょっと触れておきます。
主観で事実とは異なるかもしれませんが、朝倉選手は類稀なセンスで勝ち続けている選手です。
もちろん努力されてると思いますが、他のトップアスリートと比較すると練習量は圧倒的に少ないようです。(YouTube情報)
そして、今回は敗戦となり先程のコメントをしています。
朝倉選手は要領のいい人だと思います。
まあここからは朝倉選手のことではありませんが、要領のいい人ってなまじなんでもできるものだからそれだけで自己満足しちゃうところがあると思います。
学校の試験とかでも、勉強したらいい成績取れそうなのに勉強しない人とかいませんか?笑
「やればできるのに」
魔法の言葉です。
その甘い響きにそれを言われた人は、「自分はやればできる」と勘違いして、だいたいやりません。笑
つまり幻想。
「やってないからできていない」というのがリアルです。
才能があって「自分はやればできる」と思ってなにもしない人と、才能はないかもしれないけど「できるようになるまでやる」頑張っている人どっちがいいかっていう話です。
朝倉選手のコメントからそんなことを考えていました。
というひとりごと。
無宗教という束縛~『池上彰と考える、仏教って何ですか?』(池上彰著)と考える~
寒いですね。
今年の冬は寒くなりそうです。
今回は『池上彰と考える、仏教って何ですか?』(池上彰著 飛鳥新社)を読んで、大げさに言うと現代の日本仏教と日本人について考えてみたいと思います。
日頃思ってることを書いただけ感が否めませんが…
話半分に読んでもらえれば満足です!
個人の意見ですのでよろしくどうぞ('ω')ノ
現代日本の宗教観
宗教観とは言いますが仏教を中心に考えていきたいと思います。
本書はまったく仏教のことを知らなくても分かりやすくまとめられていると思いますので、これか勉強したい人にお勧めできるかと思います。
無宗教という束縛なんてそれっぽいタイトルつけましたが、そんなに小難しい話ではないです。
日本人は無宗教を主張する人が多いらしいですね。ちょっと調べてみました。
https://www.nhk.or.jp/bunken/research/yoron/pdf/20190401_7.pdf
どうやら間違ってはいないようです。地域によってもだいぶ違いが出そうな気がしますが、この調査では6割くらいの人が信仰がないと自覚しているようです。(冠婚葬祭以のみの関りを除く)
感覚的にも近い世代で信心深い人にあまり会ったことがありません。また、自分の信仰を主張する人は少ないように感じます。
民間に仏教が広まった鎌倉時代や、国民の戸籍を寺が管理していた江戸時代には、仏教が盛んだったにもかかわらず、なぜ現代の日本では仏教ないし宗教の信仰が衰退したのでしょうか。
実際皆さんはいかがでしょうか?
特定の信仰を持っているでしょうか。
宗教年鑑H27の統計によると日本の宗教信者の総数は188,892,506人となっています。
日本人の人口をはるかに超えていますね。これは、葬式はお寺だけど初詣に神社に行くというように仏教と神道の両方に信仰にあたる行為をしている人が非常に多いということを示しています。
興味深いですね。(笑)
無宗教というより多宗教という感じの印象を受けます。
信仰心は持っていないけど、お寺にも神社にも行く人が数十パーセントいるという統計データになります。(重複しているのは仏教、神道に限らない)
一見矛盾しているようでもありますが、一体どういう状況になっているのでしょうか。
世界のなかでも特異な状況にあると言えるのではないかと思います。
無宗教が普通?
統計データから日本人の多くは信仰心は薄いけれど、文化的、伝統的に宗教とかかわっているということがわかりました。
寺社は観光地やパワースポットとしての位置づけになっているのだと思います。御朱印を趣味にしている人も増えているようですが、信仰というよりはコレクションとして楽しんでいるという印象です。
なぜ信仰心が薄くなっていったのでしょうか。また、なぜ宗教から離れていっているのでしょうか。
これについてはすでにいろんな人がいろんな論を展開しています。
あえて宗教離れの原因について私見を言うと、
科学の台頭と家庭の変化、情報の激増があげられるかと思います。
宗教と言っていますが特に仏教視点で書いていきますね。
科学の革新により、様々なことが論理的に理解されるようになりました。
宗教というとなんとなく超越的なもの、スピリチュアルなものというイメージが強く、論理的に説明できない未知のものであるという認識があると思います。
人間は未知のものに対して警戒心を持つので、わかりやすい科学に傾倒し未知の要素のある宗教を受け入れづらい状況になってしまったのだと考えられます。
そして家庭の変化です。
ちびまる子ちゃんのような昭和の家族モデルは平成には核家族または単身世帯へと変化し令和の今ではそれが一般的になってきています。
以前は三世帯・四世帯家族が多く、各家の文化や信仰は代々家の中で受け継がれていきます。一家団欒の仕方や休日の過ごし方、先祖の話など様々なことが受け継がれます。その中に寺との付き合いや宗教的思想も含まれていたと思います。
もちろん例外はありますが。
それが核家族、単身世帯が増え、曾祖父母や祖父母、親は次世代に家の文化を継承する機会を失っていきます。
そうした環境の中では次世代に文化を伝えるという発想自体が薄れていくのは明らかです。
また、家を出て新たに家(核家族、単身世帯)を築いた人たちは、実家の文化を継承していなければ、寺との付き合い方なんて知る由もありません。実家の菩提寺が何宗に属しているか知らない人は多いです。
あえて勉強しようと思う人も少ないのではないでしょうか。こうして宗教からまた遠ざかっていきます。
さらにそこに拍車をかけたのがネットの普及に伴う情報の激増です。
宗教に関わることは日本ではなんとなく肯定的にとらえられていない節があります。
政教分離の影響なのか、カルト教団の影響なのか、世界で起きている宗教戦争の影響なのか。
宗教には様々な課題があるのは事実です。仏教でいえば葬式仏教(葬式でお金を搾取するだけの仏教)と揶揄されて久しいですし…
宗教者のゴシップもちょこちょこ見かけます。
では、信仰を持たない方が平和?スマート?今どきでしょうか?
無宗教という言葉がいつから使われるようになったか分かりませんが(わかる人教えて)、「日本人のほとんどが無宗教らしいし、特に霊とかも信じてないから私も無宗教です」って人多いんじゃないでしょうか。
バカも休み休み言ってくれって感じですね(笑)
今どきどころか時代遅れも甚だしいでしょう。個性や多様性を大切にする社会において、なんとなく宗教を避ける態度は無知以外の何ものでもありません。
なんとなくあの人種気に入らないから無視しようと言うのと変わりません。
勘違いしないでもらいたいのは、「なんとなく」で宗教を避ける態度です。別に信仰を持ちなさいと主張しているわけではありません。
宗教を必要としない人はそれでいいです。必要と感じた時に門をくぐればいいと思います。宗教は必要とする人に開かれたものです。
社会はそれを受容する態度を持っていないといけないと思います。
日本人は無宗教であるという束縛はありません。
無宗教は普通でもありません。自分の信じたいものを信じればいいだけです。
それは宗教についての教養を身につけるということにもなると思います。
無宗教という選択をするなら、宗教という選択肢も知っておいた方がいいと思うのは私だけでしょうか。
得体の知れない人物や組織がメジャーな宗教の名を語って手ぐすねを引いていることもあるので要注意です。
鵜呑みにするのは危険ですね…
だからこそ!
知ることが大事!
仏教を知る
仏教を知るというか、なにか信仰を持つのであればそれについて知ることが大事です。
まずは知ることです。宗教についての教養を身につけることです。
仏教でいえば葬式仏教と言われることがあるけど、実際のところはどういうものなのか。とか。
もともと民間では葬式を僧侶が執り行ってはいませんでした。
葬式は偉い人だけのものだったんですが、民間の声に応えて国の意向と反して民間で葬儀を執り行うようにした僧侶たちの功績で現代のような形になっていっています。
今では民間の方が僧侶を呼んでの葬式を避けるケースが増えているのは何とも皮肉なことかもしれません。
仏教についていくつか私が書いたものもあります…!
まったく言葉足らずではありますが参考までに。
池上彰さんもちょっと触れていますが、実は仏教って日本人にはマッチしている信仰だと思います。
苦しい世の中をどのように生きていけばいいのか示してくれています。それは超常的な話ではなく、いたって合理的な考え方です。
少し興味がわいてきませんか?(笑)
余談ですが、世の中のものは元素から構成されていますよね。
宗教でも同じようなことを言ってたりします。その構成要素の分類の仕方が違うだけです。科学的に証明されていることが世の中のすべてではないです。
話が行ったり来たりですが…
仏教は発信力が弱いという欠点があります。
今はいろんな方面で活躍している僧侶の方や宗派組織の情報も増えていますが、自分で調べようとしないとなかなか出会うことがありません。
長い間檀家制度が続いて、布教(仏教を知ってもらおうとする試み)が手薄になっていたことと無宗教イコール宗教に対して無知でいいとう風潮が相まって、強固な負のスパイラルに嵌っています。
僧侶は他の僧侶や組織に任せずに仏教が人々の救いの手となる可能性を伝える努力をする必要があります。
自分の信仰について考えたことがない人は特定の宗教を信仰するしないに関わらず、自分の信仰観を持つ努力をした方がいいと思います。
毎回のことながら、気持ちが先行してまとまりのない文章になってしまいました…
改善しようという姿勢が見えませんね(笑)
ああ、自己満足。
ではごきげんよう(^^)/
「マインドフルネス」の世界~『マインドフルネス 気づきの瞑想』を読んで~
約一か月半ぶりに更新します。
秋も深まってきて周りの景色も彩りが鮮やかになってきました。
悩みごとの多い今日日です…そんな時は脳に刺激を与えよう!と思って
なんか新しい本でも買おうかなーと部屋の本棚を眺めていると私を呼んでいる本がいました(笑)
『マインドフルネス 気づきの瞑想』バンテ・H・グナラタナ著 出村佳子訳 サンガ出版です。
今回はこの本を参考にマインドフルネスについて書いていこうと思います。
本書の言葉をガンガン借りていきます(笑)
が、あくまで私が共感した考え方や私の考えを書いていますのでよろしくどうぞ。
興味のある方は読んでみてください。
タイトルの通りマインドフルネスとは気づきの瞑想のことです。と言ってもよくわからないのでおいおい解説していきたい思いますが、仏教の禅宗が実践する坐禅とは異なるものです。
また、瞑想にも様々な種類がありますが、本書ではヴィパッサナー瞑想という瞑想法について記されています。ヴィパッサナーとは観察するという意味です。
禅宗の坐禅とは異なるものではありますが、段階として参考にできるところも多いと思っています。
さて、観察する瞑想とはどのようなものなのでしょうか。
幸せと不幸
人間は誰しもが自分の人生の充実を考えます。
ですよね?(笑)
では、人生の充実とは何でしょうか。どのような状態が充実した人生と言えるのでしょうか。
おそらく多くの人は何か好ましいことが続いている状態を充実した幸せな状態だと思うと思います。私はそうです。家庭を持ってそれなりにお金があって、キャンプでもしながら穏やかに過ごせたら幸せだなと思っています(笑)
しかし、実はこれが実現したとしても幸せとは言えないんです。
なぜならこれはこのままでは一時的な快楽だからです。厳しいですね…
仮に私の思う幸せが現実になったとしましょう。
私は幸せだと感じています。そして同時に心の中でいつかこの幸せを失うという恐怖を感じています。
いつか失われる幸せは一時的な快楽なんです。
皆さんも経験があるのではないでしょうか。
幸せの中にいるはずなのに、どこか不安を感じる。お祭りが終わった後ちょっと寂しい気持ちになるようなものでしょうか。
終わるときのことを無意識に考えてしまっていて、100%楽しめないそんな経験ありませんか。
あるという前提で話を進めますが(笑)
なぜそのように感じるかというと、私たちは無意識の中で世の中の「無常」を感じ取っているからです。
無常を心の底に感じながら、人生のどこかにずっと変わらない幸せがあるはずだと思っています。この矛盾が私たちを苦しめています。
この矛盾は私たちに過大なストレスをもたらします。そしてそれをSNSや飲み会、ライブ、パーティーなどいろいろなところで爆発させたりしています。
以前も何度か書きましたが、世の中の苦しみはすべて、自分の思い通りにならないということから生じます。
矛盾は解消した方がいいですよね。
無常が世界の真理なのは間違いありません。だとしたら、人生のどこかにずっと変わらない幸せがあるはずだと考えるところに問題がありそうです。
これがいわゆる欲というやつです。つまり、欲をコントロールできれば心の安らぎを獲得できそうです。
欲をコントロールできる心の状態になれれば、「家庭を持ってそれなりにお金があって、キャンプでもしながら穏やかに過ごせたら幸せ」という私の幸せ像が一時的な快楽ではなく本質的な幸せになってくると思います。
そして 突き詰めれば、人生の本質的な幸せは心の平安、平穏にたどり着きそうです。
皆さんはいかがでしょうか。異論は認めます。(笑)
あれば教えてください!
では、心の安らぎを得るためにはどうしたらいいのか。
ここで登場するのがマインドフルネスです。
欲をコントロールする
欲をコントロールすると言っても簡単なことではありません。欲(苦しみ)からの解放は仏教の到達目標でもありますからね(笑)
簡単にいけば誰も苦労はしませんが、不可能ではありません。すべてを思い通りにするよりはるかに可能性があります。
では、その一歩目として欲についてもう少し考えてみます。
本書の言葉を借りれば、私たちは「もし~~さえあれば症候群」に囚われています。
もし、お金があれば、自分の理解者がいれば、自分に合った仕事があれば、容姿がよければ…
自分が持っていない何かがあれば幸せになれると思っています。
勘違いです。
生きていて幸せを感じる瞬間を観察してみてください。それが永遠に続かない無常なことに気が付きます。
B'zの曲freedomTrainに「幸せはどこにも落ちていない 自分の中にある」という詞があります。外の世界に幸せを求めず、内側を見ないといけないとB'zも言っています(言ってない)。(B'zファンです)
私たちは何かあると、それを心の中で楽・苦・不苦不楽(好きでも嫌いでもない)の三種類にカテゴライズします。
自分を気持ちよくしてくれるものは楽、自分を不快にさせるものは苦、関心のないすぐに忘れてしまうようなものは不苦不楽に無意識にカテゴライズしています。
楽はもっと欲しいという貪りの心を生み、苦は逃れたい拒絶したいという怒りの心を生み、不苦不楽はどうでもいい物事をしっかりと見ようとしない無知の心を生みます。
仏教ではこれを欲を生み出す三つの要素、三毒と言います。
私たちは自分の人生の出来事を絶えずこの三つでカテゴライズして、人生に幸せ不幸せを感じています。
欲をコントロールするどころか欲に操られていますね…
しかし、そのことに気づけた今、少し前進した気がします。
この気づきがスタートラインです。私も今スタートラインに立てた…はずです。
ここから必要なのがマインドフルネスの実践です。マインドフルネスを通して、三毒のカテゴライズを超えた世界の見方、新しい世界の見方を身につけることが可能になります。
マインドフルネスの実践の一つがヴィパッサナー瞑想(観察する瞑想)です。
新しいものの見方を身につけることは簡単なことではないですが、踏み込んでいきます。
マインドフルネスとヴィパッサナーのスタートライン
やっとヴィパッサナー瞑想にたどり着きましたが、これまでの前段がなければ形ばかりのものになってしまうので、人生の幸せ不幸せと欲について考えることは大切な過程です。
ヴィパッサナー瞑想は観察する瞑想です。気づきの瞑想とも言えます。
観察するものは自分(心)です。
ヴィパッサナーの目的は心を清らかにし、心に落ち着きと気づき、集中力と智慧を身につけることです。なんだか胡散臭い響きがありますが、そんなことはないです(笑)
欲に支配されている心の習慣を刷新したいというものなので、超常的な現象もなければ、聖人になるためのものでもありません。
誰もがいつでも始められる心のエクササイズみたいなものです。
具体的な実践方法はここでは言及せず、入り口の部分を紹介していきます。
ヴィパッサナーでは自分の心をまっすぐに観察します。
そして様々な気づきがあることに気づいていきます。
無意識の中で、聞こえてくる音や今日の予定、体の痛み、空腹、悩みごと、楽しみなことなどなどいろんなことが思い浮かび、それらを楽・苦・不苦不楽にカテゴライズしていることでしょう。
私たちは普段カテゴライズしたそれらを思考の働き(言語あるいはエゴ)によって整理します。(お腹が減ったからあとでお菓子を食べて気分よくなろうなど)
思考が活発に働いている状態は、心があっちこっちに乱れている状態です。
気づきの瞑想マインドフルネスでは、それらを思考せず、直接(ありのまま)”気づく”ことに集中します。(お腹が空いていることをただ気づく?など)
意味不明ですか?私は書いていて意味不明です。すみません(笑)
たとえば、「私は瞑想しています」と思って瞑想しているのは思考(エゴ)の領域です。「私が」というエゴに支配されている状態です。
気づきの主体は「私」ではありません。では何が主体になるかというと、サムシング(例えば、智慧や真理でしょうか)です。気づきそのものが主体とも言えるかもしれません。
余計難しくなってしまいました。これをわかりやすく言語化するスキルを持ち合わせていませんでした…
しかし、「私が瞑想を頑張っている」という時の「私」がエゴなのはなんとなくわかるでしょうか。
瞑想を自分勝手な手段にしてしまっています。「私が」瞑想から学ぶのではなく、「私を」瞑想によって観察する(気づく)。その時の主体がエゴではまっすぐにきづくことはできないということだと思います。
端的に語弊を恐れずに言うなら、
あっちこっちにとっ散らかっている心(エゴ)に気づくことで、心が落ち着いて、ものごと本質が見えてくる。そうすると思い通りにならないという苦しみが落ち着き、心の平穏が顕れてくる。
ということですかね!
ここが究極的にマインドフルネスの効能だと言っていいと思います。
なんとなくまとめ
自分の言語能力の低さに驚愕しています。
前述しましたが、マインドフルネスでは普段の心の働き(思考)とは別のものの見方が必要です。なので、まったく簡単なものではありません。が、漠然とした不安のなかを生きる私たちに希望を与えてくれるものになり得ると思います。
そして、気づきの世界は言語を超えた実践の世界で体験するものです。
私の文章やいろんな本に書いてあることは、言葉遊びに過ぎません(いろんな本の著者さん私の稚拙な文章といっしょにして申し訳ございません!)。
言葉遊びですが、私たちの日常は言葉(思考)の世界ですので、言葉は絶対的に必要です。
実践して体験していくしかないですね。
焦りは禁物です。マインドフルネスに期待もしてはいけません。
期待すると心が落ち着きを失います。
顕れてきたいろいろな思いと闘わず、またエゴによってカテゴライズせずにまっすぐに観察し、受け入れ、執着しないことがポイントだと思います。
詳しい実践方法は、冒頭で紹介した本等で調べてみてください(丸投げ)。
今回は最大級に苦戦した上に完敗でした。。。
最後まで読んでくださってありがとうございます。
この辺とも実は関連性があるので興味があれば読んでみてください。
それではごきげんよう(^^)/
死生観の刷新 ~『死ぬ練習』南直哉著を読んで~
「生き甲斐がない」は「死に甲斐がない」と同じ。
いきなり仰々しいですが、今回は先月刊行された南直哉さんの著書『死ぬ練習』を読んだ感想を私自身の考えを交えて書いていこうと思います。エッセンスを抽出したいと思っていますが、本の紹介ではないです。概要が知りたい方はお買い求めください。(笑)
それが確実です。
死生観(ししょうかん)についての話です。
予め断っておきますが、この本は感情的に情緒的に読まない方がいいです。
ショックを受ける恐れがあります(笑)
心構えをしてから読むと楽しめるかもしれません。
自分の意味
ああ、とてつもなく哲学的ですね。でも哲学します(笑)
人間は誰しも存在価値を求めています。自分(自己)への渇望があります。
自分がいる(いた)という意味を見出したくて必死です。
そして面白いのは、自分の存在を担保してくれるのは他者です。自分自身では自分の存在を証明できません。
職場、家庭、友人、恋人などなどが私を私と認識してくれることによって、私は自分がいると思うことができます。
もし、明日から急に世界中の人が私を織田信長だと認識したら私は崩壊します。
自己の普遍性を求めるが故に、おかしなことにもなってきます。
差別問題や周囲の人間関係の歪もここに原因がありそうです。南さんが本書で触れていた例を引用させてもらいます。(けっこうよく聞く話です)
ある講演会で講師が
「皆さんは親を選んで生まれてきました」と言ったそうです。
はて?選びましたか?選んだ覚えないですよね。
ですが、聴衆も多くはうなずきながら聞いていたそうです。
お父さんもお母さんも大好きですって人はまあいいでしょう。そのまま幸せっぽく暮らせたら何よりかと思います。(皮肉じゃないよ)
そうしたらば、ネグレクトやDV当たり前の親元に生まれた子供はわざわざその親を選んだと?
親抽選会で人気の親のところは落選して、余りものに回されたと。笑えるジョークです。なんの根拠を持って言うのか聞いてみたいです。
そこまでしてでも、自分の価値を見出したいと思っているということです。
そうは言うけど自分って現実に存在してますよねっという声も聞こえてきそうなので、もう一つ例を挙げます。
古いアルバムにおじいちゃんの赤ちゃんの時の写真があったとします。今目の前のおじいちゃんといっしょに見えますか。
見えません。その赤ちゃんをおじいちゃんだと認識している人がいるから、おじいちゃんの昔の写真だとわかるわけです。
つまり、自分の存在の根拠というものはありません。根拠がないから不安になります。そして自分に意味を見出したい欲望が生じます。
自分の存在の根拠を求めたい欲の背景にあるのが「死」です。
もし永遠に死なないのであれば「生」という概念は消滅します。それはいつでもなんでもできることになり、自己(自分)の消滅(世界に溶け込むようなイメージ)を意味します。あんまり詳しくないけど、人類補完計画みたいな状態になります。(違うかも)
「死」があるから、できることとできないことが人生の中にあり、それを選択する自由があります。生きているから死ぬのではなくて、死ぬから生きていられることになる…
はい、難しい話になってきたのでやめます。ブレーンストーミングはこの辺でいいでしょう。
では頭を切り替えて、次!
死と生
「命は大切です」
「なんでですか?」
さあ、答えることができますか。
「命は大切です」のことばの陰には、死を遠ざけたい感覚があると思います。
(神道では死を穢れと考える思想があったことが影響しているかも)
死にたくないから、生きたいから、命は大切なのか。なぜ死にたくないのか、なぜ生きたいのか、答えのあるのかないのかわからないような疑問が次々に出てきます。(今は自死の話は言及しません)
では「死」とはそもそも何でしょうか。
心臓が止まることか、脳が活動停止することか、世の中から忘れられることか。
「死」を考えるとき3パターンに分けることができます。
➀死ぬ前 ②死(そのもの)③死んだ後です。
「死ぬって何?」と聞かれたとき語られるのは、死ぬ前後の話です。
苦しいとか安らかとかは死ぬ前の話で、天国や地獄に行くというのは死んだ後の話です。死そのものを語る人はまずいません。それは当然の話で、誰も死んだことがないからです。南さん的に言う「絶対的わからなさ」を持つのが死です。なので死は現象ではなく、観念に過ぎません。
わからないから、妄想します。そして、こうあって欲しいという希望を哲学や宗教に求めたりするわけです。
死後、極楽浄土に行きたいという思いはまさに、「わからなさ」を補填してくれるものに魅かれていることになると思います。
今が楽しければいいと死についてあまり考えない人は、死を意識するような状況になって初めて不安感に駆られるのではないでしょうか。
なんにしても現代社会は「生きることは素晴らしい」「死ぬことはよろしくないこと」と考える傾向のようです。
はい、それは間違っています。
生死(しょうじ)そのものに良い悪いはありませんので、別に生きていることは素晴らしいことではありません。かと言って死ぬことが素晴らしいわけでもないですが。
等価値です。
衝撃的じゃないですか?(笑)
言葉を補っておきますが、
生を否定しているわけではありません。死を否定しているわけでもなく、両方を肯定しています。
身近な人が亡くなれば悲しいし、大手術に成功し一命をとりとめれば嬉しいです。
しかしそれが成り立つのは主観(自己)があるからです。(だんだん難しくなってきました…)
はじめの問いに戻ります。
「なぜ命は大切なんですか」
「いいえ、大切なのは命ではありません。大切なのはあなたです。」
生老病死
お釈迦さまは世の中の苦しみには生老病死の4つがあると考えました。
生まれて、老いて病になり、死んでいくという時間軸を考えがちですが、これに時間軸はありません。
まあそうですよね。
災害や事故などは時間軸に関係なく死に至ることがあります。
つまり、確約された未来はありません。年齢と死に因果関係はありません(死に方に影響はあるかもしれません)。私たちは死に向って進んでいるわけでも、死が私たちに近づいてくるのでもなく、死はいつも一緒にいます。お隣さんです。
しかし私たちは死はいつか来るものと考え、いつかは遠い未来のように思っていたりします。
『四月は君の嘘』という作品があります。
ヒロインは余命数か月の病を抱えていました。死をリアルに、ごくごく近いものとして感じていたと思います。
彼女が死ぬ前にとった行動は、精一杯に生きることです。主人公と音楽に打ち込み、何気ない日常を大事にしました。
これは南さんが分類する死に方のなかの、
死の回避に当たります。彼女は生きた証を残し、その過程の中で死に呑み込まれる形をとりました。よくドラマや映画になるパターンのやつです。
他には、死への慣れと、死の受容という分類がありまして。
端的に言うと慣れは老衰を指し、受容というのはやるべきことはやり切ったという状態です。詳しくは本書で。
受容を例えるなら、ワンピースのゴール・D・ロジャーが海賊王になって処刑されたことでしょうかね。思い残すことはないみたいなことだと思います。
年齢が若いこととが死が遠いことではないことが確認できたと思います。例は映画や漫画ですが現実に少ない話ではありません。
さて、ここで考えてみたいのは、当人の死ではなく、他者として誰かの死にかかわることです。さっきの話で言えば、ヒロインではなく主人公視点です。
他者の死をどのように受け入れていくのかですね!
死者は実在する
スピリチュアルな話は一切ありません。
霊がいるかいないかを言及することにあまり意味がないからです。
南さんは本書において、死者と死体と遺体の話をされています。
死体は物体です。ものです。以前何者かだったものです。
災害時などに「死者10名です」というところの死者は死体のことです。そこで重要なのは数字だからです。しかし、その死体に人格を持たせるとそれは遺体となります。
例えば『北斗の拳』でケンシロウに殺された有象無象の衆は読者にとって死体です。その死体がケンシロウの仲間のレイだった時それはレイが好きな読者にとって遺体になります。少し極端な言い方ですがそういうことです。
3.11東日本大震災のドキュメント『遺体 明日への十日間』のなかで、
「これは死体ではないですよ。ご遺体ですよ」というようなセリフがあります。遺体安置所での一コマでしたが。
死体は私たち生きている人間が尊厳(人格)を持って関わることで遺体となり、故人が遺した体になります。
では死者はどうでしょうか。
まず、自分が死んで死者になることはありません。???となりそうですが(笑)
自分が死者になる(幽霊的なものになる)ことはありません。というか知りません。
死者は生きている人間によって死者として認識されるからです。他者が死者を死者たらしめることになります。オカルトじゃないよ。
『四月は君の嘘』に戻ってみます。若干ネタバレあるかも…
ヒロインが生前遺した言葉や音楽は、ヒロインの死後主人公に大きな影響を与えています。それはヒロインが生きていた時に主人公に与えた影響とは異なる影響です。
ここ大事だと思うので掘り下げようと思いますね。
主人公有馬くんとヒロインかをりちゃんは恋人といかないまでも、お互いに想い合っていました。二人の関係の中に愛情がありました。相手の存在に救われる関係だったと思います。
そしてかをりちゃんが死んだことで、生きている人間同士の想い合う関係は消えます。その関係が消えたことが受け入れられない状態は苦しい状態です。死を受け入れられていないということです。茫然自失。絶望。いろいろな言葉が当てはまるかと思います。
有馬くんもそうだったと思います。
生きているときは、「こうありたい」「こうあって欲しい」という欲があったはずです。思い通りにしたいという欲求です。
それが死んだ人にはまったく通用しません。それが受け入れられず苦しくなります。
かをりちゃんの死後、有馬くんはかをりちゃんからの手紙を読むことになります。
ここで有馬くんは死者としてのかをりちゃんを受け入れられたのではないかと思います。死者としてのかをりちゃんと新たに関係を結び直しました。
最後、手紙を読んでいるときかをりちゃんの演奏が聞こえる演出だった記憶していますが(違うかも)、それはまさに有馬くんの前にかをりちゃんが死者として現れた瞬間であるのではないでしょうか。
もちろん悲しいし、寂しいです。しかし死者と新たに関係を結ぶことで徐々に悲しさは懐かしさになっていき、死者も死者として育っていきます。(と書いてありました)
私もそう思います。
そのあたりのエピソードもいくつか本書に登場します。
そういう意味でお釈迦さまも死者として現代の仏教に多大な影響を与えています。死者として関係を結び、リアルに実在していると言えます。
「私の中に生きている」というのも近い考え方だと思います。ポイントはその人の死を認め受け入れているかです。
新たに関係を結び直す場が葬儀や法事、仏壇に向かうときだったりします。
今後、葬儀や法事の場に赴く際にはそういう気持ちを持つと発見があるかもしれませんね。こういった儀礼は、生きている人のためのものです。死んだ人のためではないとあえて言っておきたいと思います。
その人が死者となったことを認め、新たに関係を結び直すことは容易でないことも多いです。
しかし、新たな関係を結び直さなければ、心は凍結したままになってしまいます。
そこには赦すことが大事になってきたりしますが、これもここでは言及せず、今後に回したいと思います。
死の形のいろいろ
死にはいろいろなケースがあります。
病死、事故死、自然死(老衰)、安楽死、尊厳死、自死、脳死、他殺などがあげられるでしょうか。
いくつかは本書でも触れられていますが、安楽死と尊厳死について少しここでも触れておきます。
経験値が乏しいので想像の域を出ませんが、
安楽死は、病気などで余命がいくばくもなく、身心は苦しい。
死んだ方が楽になる、生き甲斐がもうないという発想からくる選択だと思います。
冒頭で「生き甲斐がない」は「死に甲斐がない」と言いましたが、それはこのことです。
死と生は等価値であると先述しました。等価値であるならわざわざ、他者の助力を得てまで安楽死を選ぶ理由がありません。
尊厳死は延命をやめ、自然に訪れる死に委ねます。他者に死ぬための助力を求めることもありません。大きな違いです。
非常にセンシティブな話なので、説明不足、言葉足らずになると困るので割愛したいと思います。
もっと詳しく勉強したい方は『死ぬ練習』の購入をお勧めします。
死ぬ練習
最後に仏教的(南さん的)死ぬ練習を見ていきます。
ポイントは坐禅と慈悲行の二つです。
仏教(とりわけ禅宗)には「放下(ほうげ)」という言葉があります。
身心にまつわる一切とそれらの原因になるものを捨て去るという意味です。
人間は根源的に、思い通りにしたいという欲望(煩悩)があります。
「絶対的わからなさ」を持つ死はその欲望の天敵です。わからないから思い通りにすることはできません。そこからの脱却に一役買うのが坐禅というコトらしいです。
こればかりは坐らないとわからないということなので、私も坐らないといかんなと思っています。
前回、稽古の話を書きましたが、
これと似たような話で、死に対して自分(自己)という感覚を自由自在にすると、こだわりが自然と小さくなっていくのではないかと解釈しています。
もう一つは慈悲行です。
慈悲も他者がいなければ成り得ません。思い通りにしたいという欲望は他者に対しても同様にあり、他者を所有したい欲望とも換言できます。
例えば、友達がいます。
「あいつはこういうやつだ」とわかっている。
その「わかっている」にはその友達を思い通りにできるという意識が働いています。
自分がやらなくてもあいつがやるだろ。みたいな感覚でしょうか。
前はやったかもしれないけど今はやらないかもしれないです。無常ですから!
当然のことながら、人間は誰かの所有物ではありませんし、いくら友達といえどその人を100%わかっているなんてことはありえません。
「わからなさ」を持っているものは所有物にはなりません。ここで言う「わからなさ」はわかるかわからないかがわからない「わからなさ」です(笑)
なんのこっちゃ(笑)(笑)
その「わからなさ」が大事で、そこに敬意を払う、想像力を働かせて接することが慈悲行になります。
今度は他者に対して自己という感覚を自由自在にするということになろうかと思います。
終りに
頭を悩ませる話が多かったですが、いかがでしょうか。
まったくわかりやすくもなく、消化不良感も漂っています。文章力の低さに悲しくなります…
自分の思考整理のような形になりました。
笑い要素も泣き要素も考え要素もある本でした。
死と生は分けては考えられないものです。
日日是好日の話でも書きました。
「死はいつか来るものではなく
いつでも来るものなの」(樹木希林)
生死一如。
死にも生にも蓋をしないで向かい合っていきたいです。
それではごきげんよう(^^)/
今度はもうちょっと的を絞って書こうかね!
あと読み直ししてないので、誤字脱字意味不明があったらすんません(笑)
現代社会と「稽古する」という考え方
先日、なんとなく書店で本棚を眺めていると『稽古の思想』(西平直 著 春秋社)という本を見つけました。
面白かったので紹介したいと思います。
稽古というと茶道や華道、武道といった○○道といっしょに使われるイメージですが、「稽古」という考え方が現代に…というと大げさかもしれないので、私には必要だと思いました。
漢字辞典を引くと
稽古とは、いにしえを考ふと読むようです。
なにやら深そうな感じです。ではなにやら深そうな稽古について考えてみたいと思います。
稽古の出発点
『稽古の思想』は「うまくゆく時、ゆかぬ時」から始まります。
日常的にうまくいく時といかない時ってしょっちゅうありますよね。なぜかわからないけどうまくいく時はうまくいくし、うまくいかない時は本当にうまくいかない。
仕事やスポーツを考えるとイメージしやすいかもしれません。
それはたまたまなのか、それともなにか原因があるのかを考えてみたのがこの本の著者の方だと思います。
私は学生の時部活動でソフトテニスをやってまして、結構熱心に取り組んでいました。初心者の間はラケットの振り方やボールを打つ時のフォームを教えてもらいました。「型」を習っていたということです。
徐々にいいボールを打てる時と打てない時の違いがわかってくると、フォームの崩れているところを修正して、また練習しての繰り返しでした。
段々とボレーやスマッシュなどの「わざ」を覚えて試合にも勝てるようになりました。
スポーツや音楽、芸術などの経験者の方は、「今日の自分めちゃくちゃ調子がいい」「今までで一番の出来の日」みたいな経験があるのではないでしょうか。いわゆるゾーンに入ったと言うような感覚です。
そういう時は練習してきたことが発揮されたり、もしくは練習以上のパフォーマンスが出来たりしています。それで負けることもありますが。
しかし、別の日には練習してきたことが全く出せず、練習でしたことのないようなミスがでることもあります。調子の悪い日ってことですね。相手や試合の規模等の外的要因は考えず、自分のパフォーマンスに焦点を当てて考えてください。
ちょっとネタバレです…
桜木花道は強豪の翔陽と決勝リーグ進出をかけて試合をします。花道はこれまでの試合でことごとく退場になっている状態でした。試合終盤に渾身のダンクを決めますがファウルをとられ退場になります。しかし、そのプレイは普段のパフォーマンス以上のものでチームを盛り上げ、勝利に貢献しました。
花道はダンクを決めた感想を聞かれましたが、「夢中で…」とお調子者らしからぬコメントをしています。
そう!これ!無我夢中だった。ブロックされないようにとか、ファウルに気を付けるとか、何歩でジャンプするとか考えずに夢中でプレイした結果が素晴らしいパフォーマンスだった。体が自然にそう動いたということだと思います。
そういった体の動きや心の動きを可能にするのが稽古です。
では練習と稽古どこが違うのって話ですね。
練習と稽古
言葉にはっきりとした定義はなく、一義的な説明はありません。訓練や修行といった言葉もありますが、ここでは練習と稽古で言葉の違いを考えてみたいと思います。
私は練習も稽古の一部に入っていると思います。しかし、練習のみをもって稽古とは言えません。
練習の目的は何でしょうか。
スポーツなら上手になるため、勝つため、お金のため、いろいろな目的があると思いますが、前提として本番があります。本番のために練習しているはずです。
本番だと思って練習しなさいとコーチに言われることもあるかもしれませんが、それも本番のための対策です。練習中に今日が本番だと言われることはあまりないのではないでしょうか。
では稽古はどうでしょう。
浦飯幽助は幻海師範のもとで霊光波動拳を習います。幽助は素人なので基本の型から教わります。その中で幻海師範に心を一つにするという教えを受けます。これは散漫な心を統一することもそうですが、体と心を一致させることを示しているように思います。
武道の心得に身心一如という言葉がありますが、まさにそれです。
幻海師範は敵に勝つために心を一つにすることを幽助に伝えたわけではありません。自分が間違わないように、健全に生きていくために必要だから伝えたはずです。
わざを学び、習うプロセスの中で体と心を身につけることが稽古するということだと思います。つまり、常に本番です。人生に練習はないと誰かが言っていましたが、稽古には本番か本番以外かという発想はないのではないでしょうか。
これが練習と稽古の違いだと思います。
しかし、稽古はいきなりできるわけではなく、練習というステップを経て初めてたどり着ける領域です。
なのではじめに練習は稽古の一部に入ると言いました。しかし練習のステップを越えなければその練習を稽古と呼ぶことはできないでしょう。
ではどうやって練習から稽古の領域に入るのか…
稽古の領域
稽古=練習+脱練習
本書に出てくるキーワードです。
脱練習とはいったいどういうことかというと、練習から離れることです。
本書の言葉を借りると、練習はスキルの習得で脱練習はアートの出現です。アートとは想像性であり創造性を指します。
桜木花道に戻りましょう。
桜木花道はバスケ部に入部すると、ドリブル、パス、シュートの基礎(型)を徹底的に叩きこまれます。このスキルを練習により習得していきます。
はじめてドリブルシュートを決めた時、花道は高く飛んでボールをリングに置いてくるというイメージを頭に思い描いていました。
一方高校ナンバーワンプレイヤーの沢北はへなちょこシュート(花道命名)を自然体で打ちます。このシュートは基本にはなく、試合の中での工夫によって生み出されたまさにアートのようなプレイです。ここに脱練習のヒントが見えます。
もうひとり例を出しましょう。
はじめの一歩の鷹村さんです。
鷹村さんはどんな体勢でも必殺パンチを打てる型破りの天才ボクサーです。その試合はアートと言っていいと思います。しかし、上には上がいるもので強敵ブライアン・ホークは鷹村以上の型破りボクサーでした。苦戦を強いられた鷹村の突破口は基本(型)に忠実な左ジャブでした。型破り(脱練習)の天才ボクサー鷹村のバックボーンには、基礎の積み重ね(練習)があり、それを自由自在に使いこなすわざ(稽古)がありました。
ホークのセコンドから「バイオレンスとサイエンスの融合…これぞボクサーの理想形だ。」と言われるほどです。
型を守ること(練習)、型を破ること(脱練習)、型を離れること(稽古)
この三段階が稽古の領域へのステップです。守破離ですね!
これは一方通行のルートではありません。
千利休は
「稽古とは一より習い十を知り、十よりかえるもとその一」と言っています。
練習と脱練習を繰り返し、ようやく型を離れ、自由自在になれるということだと思います。
稽古の境地 身心脱落
意味は、身心が一切の束縛から解き放たれて自在の境地になることです(『岩波仏教辞典第二版』)。
身心脱落を稽古の方程式に当てはめてみると例えば、
身心脱落(稽古)=坐禅・脚の組み方・呼吸の調え方など(練習)+坐禅・無心無体・言葉を離れる(脱練習)
となります。
坐禅の方法を頭で考えて実践する練習の段階と心と体を坐禅の方法で縛り付けることをやめる脱練習の段階を行き来し、身心が自由自在になる稽古の段階になります。
身心脱落は稽古によって体への執着や心に湧き出る欲を濾過した境地になろうかと思います。
現代に稽古したい
ここまで書いててもなんだかごちゃごちゃしていて到底わかりやすい気配がありませんが強行します。(笑)
身心脱落は執着や欲を濾過した境地だと言いました。
そこに見えてくるのは、本質的な個性、ありのままの姿だと言えると思います。個性を尊重するとよく言いますが、そこでいう個性はエゴに満ちたものではなく、ありのままの姿であり、もっとピュアなものだと思えます。
自己主張が強いとか、自己顕示欲がないとか、自分や他人が個性というレッテルを貼ったところでそれは本質的な個性ではない気がします。
ありのままの姿はそのままの姿でいいという怠惰ではありません。ありのままの姿になるためには稽古が必要なのだと思います。
現代社会のなかで練習の(型の習得の)機会はたくさんあります。
桜木花道のバスケット人生をすべて型と考えることもできます。ミクロにもマクロにも応用できる稽古の考え方です。
今練習していることが一体何のためなのか、問い直してみるのもいいかもしれません。
コロナ禍で部活動の大会が中止になって、せっかく練習したのに残念だったねと終わらせるのか、どうか。
稽古の守破離実践していきたいですね!
いろいろな場面で人生を稽古できたらいいなと思います。
いかがでしょうか!(笑)
個人的に難しい題材でした…まあよしとしましょう!
それではごきげんよう(^^)/
いまさら聞けない!仏教ってどんなもの?その3【お盆の話】
大変暑うございますね(;^^)
残暑見舞い申し上げます。
お盆休みも終わり夏の終わりを感じながらも、気候はとにかく暑い日が続きます。
お盆前に書きたかった話ですが、書けず…
今更ですがまとめていこうと思います。一般的に言われていることから私見までつらつらとやっていきます!
お盆について一緒に勉強してみましょう!
お盆の語源
「お盆」と一般的に言っておりますが、これは略語になります。
元の言葉は「盂蘭盆(うらぼん)」と言います。
逆さづりの苦しみという意味の古代インド語のウランバナ(ullambana)という言葉が語源だという説が有力でしたが、現在は古代イラン語で精霊を意味するウルヴァン(urvan)が語源という説が有力らしいです。
盂蘭盆は音写ですが、盂蘭はご飯(お供え)、盆はご飯をのせる容器という意味が一応あるようです。
一応と言ったのは漢字に意味を見出すことに重要性をあまり感じていないからです。
以降は現在の有力説であるウルヴァンを語源として考えていこうと思います。
お盆の起源
さて、お盆の起源はというと、中央アジアです(諸説あります)。不思議ですね。
語源はイランやインドの説が強いのに発祥は中央アジアとにごしているとは…その辺詳しい方がいたら教えてください(笑)
とりあえず、そこは言及せずに進めますね。
中央アジアでは豊作を祈る農耕儀礼を行っており、それが中国を経て日本に輸入されたようです。
農耕儀礼とお盆…
全然イメージが違う感じがします。ということは、中国で何かあったんでしょうね。
農耕儀礼というと豊作や除災を祈るものですが、おそらくスピリチュアルな祈りの対象があったはずです。中央アジアではその対象は神だったかもしれません。
そしてその文化が中国に入ります。
中国には儒学思想や道学思想が広まっていました。信仰の対象が祖先に向けられても納得できます。もしくは元々中国にあった似たような習慣と融合していったとも考えられます。
日本にも祖霊信仰があったので、自然と受け入れられていったと思われますが、その時に一役買ったのが仏教的な考え方であったのだと思います。
当然中国を経由した段階で儒学もですが、中国仏教の影響も受けているでしょう。(それ以前から仏教の影響があったかもしれません)
伝統的に仏教修行者は安居(あんご・一箇処にとどまって修行すること)をします。それは雨季の三か月の期間で、最終日が旧暦の7月15日です(現在の8月15日)。
安居の最終日に亡き親や祖先に追善の意味を込め、修行者たちに盆にのせたご飯を布施をし功徳を積むという仏教行事がありました。
その風習から盂蘭盆という仏教行事は、7月15日に精霊棚を作り、祖霊を招き、僧侶が読経をし、僧侶を接待して功徳を積み、先祖に対して追善するものとされたようです。
そして、祖先に少しでも長くいてもらいたいという思いから期間が拡大されたと考えられています。
祖霊信仰の考え方は初期の仏教にはなかったと思いますので、アジア諸国の様々な信仰や風習の影響を受け、現在の日本の形に落ち着いて(?)いるのではないかと思います。
つまり、後代に生まれた独特の行事であり、仏教行事ではありますが、ルーツは純粋に仏教にあるわけではないという結論です。
しかし、むしろ祖先の残してくれた日本の伝統行事としてしっかりと継承していきたいと思います。
SNSに今日はお墓参りに行ってきたよと投稿するのも現代的でいいかもしれませんね!
お盆中って何をするものなの
先ほども少し触れましたが、精霊棚を作ります(方法は地域で異なります)。
お供え物を用意し、縁の方とお墓参りをして、お花を供えたらお盆を迎える準備オーケーです。
13日の夕方になったら迎え火を焚きましょう。お墓の灯籠でも庭先でも結構です。その灯りを目印にご先祖様がやってきます。
お盆中は毎日お参りできるといいです。
お盆の最後の日には送り火を焚きます。灯籠流しをする地域もあります。
期間中に棚経と言って精霊棚のご先祖様にご供養をしに菩提寺のお坊さんがやってくるので、縁の方と一緒にお参りするといいと思います。
それぞれの事情はあろうと思いますが、年長の人は年少の人に近く亡くなった故人のことや、ご先祖様のことを語ってほしいと思います。
小さい子は大人の姿をしっかり見ていますよ!普段そういった話をする機会が少ないならなおさら年に一度のお盆の期間を使ってみてください。
目連尊者の話
目連というお釈迦さまの弟子の盂蘭盆にまつわるエピソードを紹介します。『盂蘭盆経』というお経に記されています。
目連さんは神通力に優れた人でした。
目連さんはある時神通力を使って亡き母の様子を見ることにしました。
すると母は餓鬼の世界におり、苦しい思いをしていました。水を飲もうとすると暑さで熱湯に変わり、蒸発してしまうのです。
その光景を見た目連はお釈迦さまにどうしたら母を救えるか聞きました。
目連の母は生前に目連の飲み水を確保するために、水を求めてきた人に分けることをしませんでした。
なのでお釈迦さまは安居が終わるとき僧侶たちに食べ物を布施しなさいと言いました。
その通りにすると、その布施の功徳(追善)で母は救われたと言います。
この故事に基づいて盂蘭盆会が行われるようになったとも言われています。
『盂蘭盆経』は中国成立です。
いま、祖霊信仰を考える
祖霊信仰を考えた時、私はいのちのバトンや生命倫理、義務的な親孝行観などがマイナスイメージの原因になり得ると思いました。または、単にあまり興味がない方も多いかもしれません。
祖霊信仰を支えていた背景に家族の文化があります。おじいちゃんおばあちゃんにお母さんお父さん子供たちがいて、それぞれが家族というコミュニティのなかで役割を持っています。
現代においては家族文化は大きく変わり、核家族や単身世帯が増えました。年長者は語る機会が減り、年少者は「聞く」機会が減りました。つまりそれはお互いの思い出が少ないということです。
思い出がなければ思い出すことも思い出してもらうこともできません。それは寂しいと私は思います。私は思い出したいし、思い出してもらいたいと思っています。
皆さんはいかがでしょうか。
少し話を戻して、先ほどいのちのバトンや生命倫理、義務的な親孝行観と書きました。
なぜこれらをマイナスイメージの例にしたかというと、これらには共通してある種の強迫観念が付くことがあるからです。
義務的な親孝行観で祖霊信仰の強迫観念を説明してみます。
先祖とは祖父祖母のさらにさかのぼった自分の血縁のルーツです。それを現代に近づけると両親が一番近い自分のルーツになります。
先祖を大切にすることを拡大延長すると親を大切にすることになってきます。つまり親孝行することが大事かのような雰囲気になってきます。
もちろんそれはとても素敵なことです。
さて、ここまでではマイナスになる話はありませんが、世の中には毒親と呼ばれる親がいます。
DV、ネグレクト、虐待等深刻な問題が親孝行の前に立ちふさがります。毒親にも孝行しなくてはいけないのか。自分を生んだ親に絶対に感謝しなくてはならないのか。
仏教では生は苦しみです。親は子を選べませんし、子も親を選べません。すべては縁です。毒親のもとに生まれたら苦しい生活です。苦しみからは脱却しないといけません。毒親に孝行なんて苦行ですもん。
また仏教では命が大切とは言いません。大切なのはあなた自身です。救いの手は必ずあるはずです。
結局のところ、毒親に孝行する必要はないし、まして生んでくれてありがとうと無理に思う必要もないです。
しかし、自分でつなげておいてなんですが、祖霊信仰と自分は親(祖父母等の血縁のある人間)が嫌いだから祖霊信仰できないとは考えないでもらえたらと思います。
血縁は縁の中の一つです。
縁は無数に私たち身近にあります。血縁が一番ではありません。まずは自分が大切にしたい縁をみつめてみたいですね。祖霊や先祖とずっと言ってきましたが、祖霊信仰は究極的には縁の信仰だと私は思います。
お盆やお彼岸、法事などをご先祖様のことを広い視野で、いろんな角度でとらえる機会にしていきたいと思ったりします。
自分にとって大事な人のご先祖様に思いを馳せるのも素敵なことだと思います。
お盆のいろいろを勉強してみました!
分かりにくいところは調べて、教えてください('ω')ノ
それでは今回はこれで、ごきげんよう。
るろうに剣心にみる仏教世界 ~ただの日記~
久しぶりの投稿になりました!
いつものごとく思いつきに従います。
お酒を飲みながらでも、ぼーっとしながらでも読んでください。('ω')ノ
皆さん、「るろうに剣心」という漫画をご存じでしょうか。
佐藤健さんや神木隆之介さん、福山雅治さんなど豪華キャストで実写映画化され、ワンオクロックが主題歌を担当して話題性抜群で再注目された作品だと思います。
OVAの追憶編は漫画史上に残る傑作だと個人的には思っています。
まだ見ていない人はぜひ一度触れてみてください!
明治維新を人斬りとして生き、自分の奪った命の重さを背負いながら流浪にとして明治の時代を生きる剣心という人間の物語です。
剣心は飛天御剣流という流派の剣術を使います。物語の中で様々な流派が登場しますが、他を寄せ付けない圧倒的な強さを誇ります。
流派があるということは当然師匠がおりまして、作中最強と誉れ高い比古清十郎という現飛天御剣流の後継者がいます。
比古清十郎は無類の酒好きでいつもひょうたんを持っているイメージですが、
そんな彼の名言に
春は夜桜 夏には星 秋に満月 冬には雪 それで十分酒は美味い
というものがあります。奇しくも今日は満月です。
季節は夏ですが…
さて、この言葉どうでしょうか?
皆さんどのように受け取りますか。
私はこの言葉に出会ったとき、二人の人物を思い出しました。
道元禅師は
春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪冴えて涼しかりけり
という詩を残しています。そっくりですね。
相田みつをさんは
雨の日には雨の中を 風の日には風の中を
と言っています。
あまり似ていませんね(笑)
この三人言っていることはだいたい同じだと思います。
まずは、比古清十郎と道元禅師から見ていきます。二人は四季の風物を言っているだけですね。当たり前のことなように思えます。比古清十郎はこの当たり前があればお酒が 美味しく飲めると言っています。さらに続けて、「それでも不味いんなら、それは自分自身の何かが病んでいる証拠だ」と言っています。
明日をも知れぬ死と隣り合わせの生活の中で感じる心の持ち方なのかもしれません。その日一日を最期だと思って生きているからこそ出てくる言葉ではないでしょうか。
道元禅師の場合も当たり前をあえて言葉にすることで、それは本来無常であり、その日一日を生き切っているかと言ことを問うてるのではないかと思います。
春に桜が美しいと思えるか、夏にほととぎすの声を聞けているのか、秋に満月の明かりを浴び、冬に雪の冷たさを感じる、そんな心を持てているかと言いたいのではないでしょうか。
「当たり前としっかり向き合えているのかお前!」という二人の声が聞こえてきそうです。
そしてここにきての相田みつをさんです。
「雨の日には雨の中を 風の日には風の中を」
この言葉は本当に好きで前の投稿でも触れたことがあります。
先日まで長い梅雨で雨の日が続きました。人に会うと天気の話をする日本人なので「今日は天気が悪いですね」というフレーズを何度も聞きました。
さてはて、雨の日は悪い日ですかね。
そんなことありません。雨の日は雨の日です。良いも悪いもありません。晴れの日は良い日でしょうか。そんなこともありません。晴れの日は晴れの日です。それ以上もそれ以下もありません。
最近は豪雨による被害も多く、たくさんの人の生活が脅かされ命を落とす方も多いです。世界を見れば日照りが続いて命を落とす方もいます。
その方たちから見れば、雨も悪く、晴れも悪いです。結局は人間の判断になりますし、きれいごとであることは間違いありません。しかし事実であることも間違いありません。
新型コロナウイルスの流行も第二波と言われるステージに入りました。
このウイルスに翻弄されるままに過ぎていった令和二年上半期は毎日が悪い日ではなかったのではないでしょうか。
今がもしイマイチな時間でも未来と地続きの大切な時間です。『リアル』(井上雄彦)の主人公の受け売りですが…
雨の日は雨で好し、風の日は風で好し、晴れの日は晴れで好し。
そう思うとお酒も美味しくなるのではないでしょうか。
私もこの三人に倣って言葉を残したいと思います。
春風匂い 夏虫の声 秋には紅葉 冬の雪化粧 ホッとする
そんな一日 過ごしたい
お粗末でした(笑)
比古清十郎味わい深い名言を残してくれましたね~。
だらだら日記終わります。また次回(*'▽')