仏教的に見るオンラインの世界
みなさんこんにちは。
ちょっと長いですがしばしお付き合いください!
いきなりですが、新型コロナウイルスという言葉をはじめて聞いてから随分経ちましたね~
2020の上半期はこのウイルスに翻弄される形になり、私たちは生活のいろいろな場面で影響を受けましたね。
この数か月でいろいろな言葉が流行りました。
- 新しい生活様式
- コロナ禍
- アフターコロナ
- withコロナ
- ステイホーム
- おうち時間
- テレワーク
- オンライン飲み会 etc.
今回は「新しい生活様式」と「オンライン」について仏教的に少し考えてみたい思います。
私たちはコロナを通して何を考えないといけないのでしょうか。
一緒に探してみませんか?
目次
1.オンラインの恩恵
オンラインとはインターネットが接続している状態を指します。
そんなん知ってるって?一応ね(笑)
私たちの社会はコロナ蔓延以前からネットなしには回らない社会でした。
インターネットほど便利で生活を楽にしてくれるものはないのではないでしょうか。
オンラインの恩恵はずばり便利なことですね。
現代人は忙しいとよく言いますが、私もその通りだと思います。ショッピングや飲食店の予約、会議など何から何までオンラインで解決できる世の中は忙しい現代人にとって強い味方と言えそうですね。
遠くにいる友達や家族とも手のひらサイズの四角い奴があれば声も聞けるし顔も見れるなんて革新的ですよね。ステイホームしていても何でもできちゃうんだからすごいと思いますわ。
SNSを利用している人も相当いるんじゃないでしょうか?
だれでも情報を発信しやすくなって、ユーチューバーって職業が余裕で成立するし、夢はユーチューバーって子供も増えてるみたいです。
なんなら大人もユーチューバーになりたい人増えてるんじゃないかな。
コロナ禍で芸能人のYouTube進出もすごかったですね。
いろんな人が参入してきて混沌してるよな印象もありますが。
近い未来、インターネットの恩恵が当たり前すぎてもはや恩恵とも 感じない世代の時代がやってきそうです。
小学生とかちっちゃい子がこれ読んでるとは思わないけど、ユーチューバーはやめとき!君らがでっかくなるころには衰退してると思うよ。
まあ全部読むころにはやめとこって思ってるかもね('Д')
恩恵でもなくなってしまいました………次!
2.オンラインの危険性
おそらくみなさん予想してると思いますが、こっちが本題です。
いろんなところでニュースにもなってますね。
まあ、私が改めて言うまでもなく多くの人がネット社会の怖さや危険性を知っていると思います。
が、この機に改めてどんな怖さがあるんでしょうか。
- SNSなどでの個人に対する誹謗中傷
- 真偽の分からない情報の錯綜
- 勘違いや誤解を招きやすい
- オフラインになった時の脆さ
・・・あれ?あんまり思いつかない。細かく分けるともっとありそうですが、まあいいでしょう。
たぶん今挙げた4つが大きな問題になってる ところだと思います。
あと現代人は忙しいって言ったけど忙しくしてるのもインターネットじゃないかな。
せっかくネット使って効率化してできた隙間にどんどん詰め込むから。そりゃアップアップしますわ。
そしてやっぱり気になるのは誹謗中傷と脆さでしょうか。
これこそあえて説明するまでもないですかね。
誹謗中傷なんてね言う側も言われる側も幸せにならないです。
地震とかで電気落ちたらどうすんの生きていけんのって話ですもん。
そうです!ソフト面もハード面もネットに頼りきってたら命にかかわります。大げさでも何でもなく、現実に多くの命が失われているのは周知の事実です。
私たちはネットの恩恵を受けるために命をかけているんです。現時点では他人事だと思うかもしれません。しかし、自分のことになった時には手遅れなんてことも。
だいぶシリアスな話になってきましたね…
完全に余談ですが、オンライン飲み会についてどう思いますか?
私は合わないな~って思ってます。部屋で四角い板に話しかけながらお酒飲むのはなんか違和感があって。やっぱり空気や空間を共有してなんぼかなと。
みなさんはどうでしょうか。流行りに乗ってみたものの乗り切れないなって思う人もいるんじゃないですかね。逆にめちゃくちゃ楽しいという人もいると思います。
オンライン飲み会楽しんでいる方はぜひコロナが収束してからも定期的に開催してみてください。やっぱりリアルがいいのか、オンラインの方がいいのか検証して教えてほしいです。純粋な好奇心であって皮肉じゃないですのであしからず。
ここまで仏教的要素のないまま来ましたが、なんとなくいいところとそうじゃないところが見えてきた(?)と思うのでそろそろ仏教にご登場願いましょう。
3.仏教の登場
さあ、いよいよ仏教の登場です。
仏教はネット社会の現状をどのように分析できるのでしょうか。
佐々木閑先生の著書『ネットカルマ』を参考に考えていきます。こちらの著書は2018年に出版された比較的新しいものです。興味のある方はぜひ一冊お手元に。
仏教的に見る世の中のしくみ
まず前提としてこの世界は因果法則によって成り立っています。
すべてのものは原因があって生じるってことです。縁起とも言います。
私たちの悩みの種は苦しみです。非常にリアリストだったお釈迦さまは、世の中は苦しいことで満ちていると考えました。
四苦八苦という言葉をご存じでしょう。お釈迦さまは世の中の苦しみを8つに分類しました。総じて言えることは、人は思い通りにならないと苦しむということです。
欲しいものが手に入らないと残念な気持ちになるのも苦しみですし、嫌いな人に会わないといけないのも苦しみですよね。愛する人と別れることも苦しいです。
すべて自分の思い通りにならないから苦しいのだとお釈迦さまは言うわけです。ここに気づくとは、さすが心のスペシャリストです。
苦しみから解放されることが仏教の命題です。
解放されるといってもそれは死によっては成り得ません。仏教の世界観は六道輪廻ですので、現世で命が尽きればまた六道のどこかで生を受けることになります。
六道を補足しておくと
天道
人間道
餓鬼道
以上の六つの道です。
天道と浄土は違うのでご注意を。浄土は輪廻から解放されている世界です。
ですが天道は輪廻の中にあります。なので天道にも死があります。神木隆之介さん主演の映画『TOO YOUNG TOO DIE 若くして死ぬ』にもそのようなシーンがあります。まあもし見るならギャグ映画として楽しんでください。仏教の教えを正しく扱っているものではありません。脱線しました…
話を戻します!
小さい時、悪いことしたら地獄で閻魔さんに舌引っこ抜かれるぞってさっちゃんが言ってましたよね。それです!(さっちゃんはあなたの幼馴染で、おばあちゃんと毎日墓参りに行っているおばあちゃんっ子だと思ってください)
(さっちゃんの元ネタは西森博之さんの『鋼鉄の華っ柱』からです。面白いから読んでみてね!)
では、六道輪廻の中を生きる私は死んだらどの道に行くんでしょうか。私の死後の行き先はだれがどうやって決めているんでょう。
さっちゃんと喧嘩した時をよく思い出してください。
「あんたなんか地獄に落ちちゃえ」
「嘘ついたら地獄に落ちるっておばあちゃんが言ってたんだから」
と言っていましたね。
なるほど、落ちるんです。落とされるのではなく落ちるんです。
そして、地獄に落ちるのは自分が嘘をついたからです。
仏教ではこれを因果応報や自業自得と言います。
人間は自分のした行為の報いを受けるのです。なんとなく因果応報も自業自得も悪い報いを受けるようなイメージがありますが、そんなことはありません。
例えば、桜木花道はバスケット初心者でしたが、ジャンプシュート二万本合宿を成し遂げて、最後には逆転ブザービーターで勝利を飾ります。
これも自業自得です。努力が勝利という結果を生んだんです。
もし負けたとしても、努力の報いを受けるでしょう。
業(ごう)という言葉が出てきましたが、行為という意味です。インドの言葉でカルマといいます。以下カルマという表記で書きます。『ネットカルマ』のカルマです。
カルマとネットカルマ
ネットカルマの前にカルマについてもう少し触れてみましょう。
先ほどのさっちゃんや桜木の例からも分かるように、カルマの考え方は案外私たちの生活に根付いています。
それに伴って問題もおこります。カルマの考え方の誤用です。
本来カルマは、自業自得の言葉からわかるように、自分のカルマの報いが自分に現れるという性質です。
それを誤解してできた言葉が「親の因果が子に報う」です。今ではあまり聞いたことのない言葉かもしれません。
たっちゃんを思い出してください。(たっちゃんはお父さんがギャンブルで多額の借金をしてあなたの近所に引っ越してきたいつもいじめられてる子だと思ってください)
たっちゃんは高校生になっていました。お父さんは相変わらずで、さらにはアルコール依存症になっていました。
たっちゃんは大学をあきらめ、就職活動をしています。
ある日の面接で、
「お父さんは何をされていますか」と聞かれて、答えると…
「そんなだらしない親がいるのでは会社の品位を損なう」と言われました。
学校に帰って先生に報告すると
「お前の父親がそんなだからおまえに報いがくるんだ。因果応報だ」と言われたと言って泣いていましたよね。
どこが応報なんでしょうか。実刑判決の出た人の代わりにおまえが求刑されろと言ってるようなものです。
たっちゃんはその後先生になって生徒からも父兄からも人気だそうです。
たっちゃんの先生は飲酒運転で事故を起こして免職になったそうです。
カルマ法則の誤用は時として人の心を傷つけてしまいます。
さらにはそのカルマによって自分に報いがくるのです。
どうでしょう?恐ろしいでしょうか?
いやいや、じゃあいいことしてればいい報いがくるんでしょ。簡単じゃんという声が聞こえてくるようです。
それは、イエスでありノーでもあります。
イエスというのは、そのままです。いいことのカルマが報いれば一時的に幸せを得られるでしょう。
ノーというのはどういうことか。仏教は苦しみからの解放を目的としています。いいことのカルマであってもカルマが生じてしまえば、それは輪廻の中の出来事で、本質的な解放にはなりません。
ワンピースで例えましょう。
模範的な海賊(奪う、殺す、意味もなく暴れる)をしている黒ひげは海賊として幸せに航海しています。しかし海賊王にはなれないでしょう。
一方、ルフィは模範的な海賊とは言えません。略奪や殺しをしていませんからね。
行動はいつも本能に従ったものです。しかし周りに人が集まってきます。これはルフィが打算で行動していないからではないでしょうか。
そして、海賊はこうあるべきにとらわれず冒険をしているルフィは海賊王になるでしょう。
海賊の世界が輪廻の世界、海賊王は歴史のすべてを知った人であり、輪廻から解放された状態と思ってもらえればなんとかわかるかな。(笑)
一般的に見て一番海賊っぽい黒ひげじゃ最高のポジションには到達できないんですねー。
例えることでより分からなくなるという悪い例かもしれません…
カルマの法則がなんとなくわかってきたでしょうか。
佐々木先生の著書にカルマ法則のまとめがあるので紹介します。
1 人がおこなった善悪の行為はすべて記録される
2 記録された善悪の行為は、報いとして現れるまで保存され、いつか必ず当人に報いが現れる
3 どのような形で報いが現れるかは予測できず、原因になる善悪の行為から報いを推測することはできい
おおよそこんな感じです。
要するに、どんな形にせよ行為の報いは本人が受けて、報いを受けるまで記録されてるから逃げられないよってことですかね。
カルマの法則はお釈迦さまの時代のインドではスタンダードな世界観でした。
現代日本では感じにくいことかもしれませんね。
「お天道様がぜんぶお見通しだよ」
と言っていたのはやはりさっちゃんくらいでしたが、当時はこのお天道様がカルマの記録媒体だったわけですね。
じゃあ今は…?
さあ、ピンときましたか?
2500年前から現代に残りながらも薄れつつあったカルマ法則の復活劇はネットによってなされているんです。
お天道様という人の心の温もりがあった記録メディアは無機質な監視カメラになって私たちの行為を絶えず記録しています。
ネットカルマがどういうものか想像ができてきたでしょうか。おそらく皆さんの想像の上を行くシステムになって復活しています。サイヤ人が死にかけてから復活してパワーアップするようなもんです。
そのパワーアップを加速させるのがIoTです。Internet of Thingsが進めばテレビやエアコンなど身の回りのものが常に私の状態を記録していることになります。佐々木先生はドライブレコーダーを例に挙げています。運転中のトラブルへの備えとして、多くの車が搭載しています。そこにはトラブルがあろうとなかろうと運転中の自分が記録されていきます。そのうち、日常のトラブルへの備えとしての何かも流行ることになるかもしれません。それこそスカウターのようなものが。
実際スカウターという記録メディアによって、ラディッツの死を知ったベジータは地球に襲撃しました。
コロナ禍で起こった他県ナンバー狩りも同じです。
SNSで道の駅に他県ナンバーの車があると誰かが発信して、受信した人の中の誰かが衝動に駆られて道の駅を襲撃する可能性があるわけですから。
AIもすごいです。インターネットの使用履歴から、本人しか知り得ない趣味、嗜好を読み取ってしまいます。
監視カメラ、IoT、スカウターとネットの中にいる以上はどこにいようがこの監視システムから逃げることはできません。今日はお忍びで!なんてことは一切できません。記録されることを拒めないのです。
さらに、ネットにはお天道様の温もりはありません。現在はネットモラルの広まりやトラブルを避けたい管理者、ユーザーによる通報機能などによってなんとか歯止めをきかせている部分もありますが、ネットには人間味がありません。
人間が悪意を持って情報を操作すれば、根も葉もない非難にさらされてしまいます。
ネットカルマにはお釈迦さまの時代のカルマとの大きな違いがあります。
それは、記録が消えないことです。そもそものカルマ法則では報いが現れたらその原因のカルマのエネルギーは消えます。しかし、ネットでは消えません。
昔につぶやいた誰かの悪口が何かのきっかけで、掘り返されて非難の対象になるかもしれません。
もし掘り返されたなら、自分ではない誰かの仕業でしょう。その誰かの悪意によって情報は歪み、自分のカルマよりも重い報いを受けることになりかねません。
店員に土下座させた映像を流してしまった人がいましたね。
もちろん、その人は悪いことをしました。それは報いとなってその人に現れるんです。ネットにアップして消えないカルマの記録にしてしまったために炎上し、どこの誰とも知らないから非難され続けます。やっと落ち着いたころに同じようなことをした人が炎上すると、飛び火してまた非難されます。
ずっと苦しむことになります。地獄ですかって感じでじゃないでしょうか。
ネットカルマのことがなんだか分かってきましたね。
カルマ法則とネットカルマは似ている部分もありますが、記録媒体と実例を考えるとネットカルマの方が怖いなと思います。
みなさんどんな感想をお持ちでしょうか。
4.ネット社会をどう生きるか/新しい生活様式
ちょっと深呼吸…ふぅぅ~
現代に戻ろうか!
ネット社会のなかで私たちに求められる新しい生活様式とは一体…?
さっちゃんはネットなんてやめればいいって言いそうだね。(笑)
できる人はいいさー。できないから困るんだよって。
どうしましょ。
パッと考えてみましょ!
① 適切な距離をとる(できるなら一番よさそう)
②悪い書き込みをしない(善悪の基準って人それぞれだよね)
③いいね👍をたくさんもらって幸せな気持ちになる(さっきの黒ひげパターンだね)
④気心の知れた中だけで利用する(これは結構みんなやってるんじゃないかな。配信で収益上げてる人はむずかしいかも)
⑤ネットがいらない趣味を作る(効果ありそう)
とりあえず思いつくままに書いてみました。
みなさんどうですか?これだ!ってやつがあれば教えてくださいね!
さて、仏教的にはいかがなものでしょうか。
今回は修行して煩悩を払えとは言いません(笑)
パターン1。
善悪を正しく判断できるように訓練する。
善悪の正しい判断なんて簡単だって思います?
その判断ができないほど私たちは危機的状況になりつつあります。動画の不正アップロードが後を絶たないのはなぜでしょう。アカウントが止められたらまた新しく作ればいいですか?悪を悪だと思えなくなってきているのではないでしょうか。
カルマは、心に念じる、口に出す、行動にするという三段階のパターンです。念じる前に、口に出す前に、行動を起こす前に考えてみましょう。それは自分の幸せのためになるか、相手の幸せのためになるか、誰かの幸せのためになるか、みんなの幸せのためになるか。これをクリア出来たらまず悪ではないと思います。
パターン2。
少欲知足です。
仏教の言葉で、足るを知り、欲を制御しなさいということです。
苦しみは思い通りにならないことから起こるという話をしました。思い通りにならないこと思い通りにしようとする心から欲が生まれます。
少欲知足。思い通りにならないことを知り、必要以上に求めない心養うということです。
パターン3。
思い切って価値観を改める。これですね!これが素晴らしい。今一番チャンスがきてる方法だと思います。正しいものの見方を身につけるという教えです。
コロナ禍において、新しい生活様式って発想を国が示しました。これまで当たり前だったことが当たり前じゃなかったことに気づきました。今の状況をなんとかしたいと思いました。自分の価値観を見つめなおすチャンスです。
ネットカルマのシステムをぶち壊してくれるヒーローを待っていても来てくれません。でも自分の凝り固まった価値観をぶち壊してくれるヒーローはいます。自分自身です。ダンマパダというお経にこのようなことが書いてあります。
この方法はネット依存気味の人向けですね。簡単に言えば、ネットの住人から現実の住人になろうってことね。きっかけが欲しいって?きっかけは、今変わろうと思ったから!それで十分でしょう。
いいね👍の数や嬉しいコメント、むかつくコメントで幸せ(仮)になったり、不幸(仮)になったりするのを克服して、現実での幸せのためにネットをコントロールするように意識してみる。
なるほどなるほど、人によって処方箋が違うことがわかってきました。
自分に合った処方箋を見つけないといけませんね。
5.加害者と被害者とどう向き合う
ネットカルマの被害にあっている人はすでに大勢います。
店員に土下座させた動画をアップした人はその時点では加害者です。店員に対する名誉毀損か営業妨害か暴行罪かはわかりませんが犯罪行為に間違いありません。
しかし、それが炎上することでたちまち会ったこともない人たちから非難を浴びせられ被害者になります。罵声を浴びせることが正義かのように叩かれます。
おそらくここで罵声を浴びせた人たちも名誉毀損に当てはまるのではないでしょうか。
いずれにしても、一度の過ちを以ってその人の人格を決めつけ、否定するのはいかがなものでしょうか。正しく善悪の判断ができているとは言えません。
自分の失敗は隠したいけど、他人の失敗は気になってしまうのが人間です。
慈悲の心を育て、他者をゆるし、慈しみ、自分を整えることが大切です。
じゃあ犯罪者もゆるすんですか?という声が聞こえるような…
はい。ゆるします。
きれいごとでしょ?と追い打ちがきそうです。(笑)
そうかもしれません。
緋村剣心が言ってましたね。
「剣は凶器。剣術は殺人術。どんなきれいごとを並べてもそれが真実。だけど拙者は真実よりも、薫殿の甘っちょろいきれいごとの方が好きでござるよ」って(細かいセリフわかりませんすみません)
まあ実際ゆるさないときついと思います。
けーちゃんを思い出してください。(けーちゃんはあなたと試験会場で会った仲間で、家族や仲間を犯罪者集団に殺害されて復讐を誓っています)
けーちゃんは敵を討つことが人生の目的なので、なんだかいつも余裕がなくて辛そうです。
一方、ひーくんはどうだったでしょう。(ひーくんは右手にいつも包帯を巻いてるあなたのライバルで生まれてすぐに男だったから捨てられて自分を捨てた集落に復讐しようとしてた)
ひーくんは自分を捨てた集落に行くも、集落に対する幻滅を以って復讐とした。これは自分が前に進むためのゆるしだったんじゃないかな。その後は双子の妹を陰ながら大切にしながら、生きたいように生きてます。
自分が当事者だったらどうでしょうか。
私はゆるせる人間でありたいです。
6.終わりに
いかがでしたか?
いろんな漫画がでてきましたね!そこは本題ではないですが(笑)
故樹木希林さんの最期の映画『日日是好日』のなかに出てくるセリフを紹介します。
「死は、いつか来るものではなく いつでも来るものなの」
お釈迦さまが説いた無常の理を言い表いしています。
同じように繰り返す日常でも全く同じ瞬間は二度と来ないですよね。
コロナ禍ではオンラインが命綱になっています。
じゃあ首都直下型地震が起きて、電気系統がマヒしてオンラインが絶たれたら。
自分のよりどころ自分自身です。
ネットはいざという時、助けてくれません。
また、大人としてこれからインターネットに触れる子供たちに正しい使い方を教えていく責任があります。しっかりと伝えていきたいと思います。
説明を忘れてるところはなかったでしょうか。
あったらこっそり教えてください(^^)/
では、今回はこの辺で。
よければみなさんの考えも教えてほしいです。
それでは、ごきげんようさようなら。
参考:『ネットカルマ』佐々木閑 著