いまさら聞けない!仏教ってどんなもの?その3【お盆の話】
大変暑うございますね(;^^)
残暑見舞い申し上げます。
お盆休みも終わり夏の終わりを感じながらも、気候はとにかく暑い日が続きます。
お盆前に書きたかった話ですが、書けず…
今更ですがまとめていこうと思います。一般的に言われていることから私見までつらつらとやっていきます!
お盆について一緒に勉強してみましょう!
お盆の語源
「お盆」と一般的に言っておりますが、これは略語になります。
元の言葉は「盂蘭盆(うらぼん)」と言います。
逆さづりの苦しみという意味の古代インド語のウランバナ(ullambana)という言葉が語源だという説が有力でしたが、現在は古代イラン語で精霊を意味するウルヴァン(urvan)が語源という説が有力らしいです。
盂蘭盆は音写ですが、盂蘭はご飯(お供え)、盆はご飯をのせる容器という意味が一応あるようです。
一応と言ったのは漢字に意味を見出すことに重要性をあまり感じていないからです。
以降は現在の有力説であるウルヴァンを語源として考えていこうと思います。
お盆の起源
さて、お盆の起源はというと、中央アジアです(諸説あります)。不思議ですね。
語源はイランやインドの説が強いのに発祥は中央アジアとにごしているとは…その辺詳しい方がいたら教えてください(笑)
とりあえず、そこは言及せずに進めますね。
中央アジアでは豊作を祈る農耕儀礼を行っており、それが中国を経て日本に輸入されたようです。
農耕儀礼とお盆…
全然イメージが違う感じがします。ということは、中国で何かあったんでしょうね。
農耕儀礼というと豊作や除災を祈るものですが、おそらくスピリチュアルな祈りの対象があったはずです。中央アジアではその対象は神だったかもしれません。
そしてその文化が中国に入ります。
中国には儒学思想や道学思想が広まっていました。信仰の対象が祖先に向けられても納得できます。もしくは元々中国にあった似たような習慣と融合していったとも考えられます。
日本にも祖霊信仰があったので、自然と受け入れられていったと思われますが、その時に一役買ったのが仏教的な考え方であったのだと思います。
当然中国を経由した段階で儒学もですが、中国仏教の影響も受けているでしょう。(それ以前から仏教の影響があったかもしれません)
伝統的に仏教修行者は安居(あんご・一箇処にとどまって修行すること)をします。それは雨季の三か月の期間で、最終日が旧暦の7月15日です(現在の8月15日)。
安居の最終日に亡き親や祖先に追善の意味を込め、修行者たちに盆にのせたご飯を布施をし功徳を積むという仏教行事がありました。
その風習から盂蘭盆という仏教行事は、7月15日に精霊棚を作り、祖霊を招き、僧侶が読経をし、僧侶を接待して功徳を積み、先祖に対して追善するものとされたようです。
そして、祖先に少しでも長くいてもらいたいという思いから期間が拡大されたと考えられています。
祖霊信仰の考え方は初期の仏教にはなかったと思いますので、アジア諸国の様々な信仰や風習の影響を受け、現在の日本の形に落ち着いて(?)いるのではないかと思います。
つまり、後代に生まれた独特の行事であり、仏教行事ではありますが、ルーツは純粋に仏教にあるわけではないという結論です。
しかし、むしろ祖先の残してくれた日本の伝統行事としてしっかりと継承していきたいと思います。
SNSに今日はお墓参りに行ってきたよと投稿するのも現代的でいいかもしれませんね!
お盆中って何をするものなの
先ほども少し触れましたが、精霊棚を作ります(方法は地域で異なります)。
お供え物を用意し、縁の方とお墓参りをして、お花を供えたらお盆を迎える準備オーケーです。
13日の夕方になったら迎え火を焚きましょう。お墓の灯籠でも庭先でも結構です。その灯りを目印にご先祖様がやってきます。
お盆中は毎日お参りできるといいです。
お盆の最後の日には送り火を焚きます。灯籠流しをする地域もあります。
期間中に棚経と言って精霊棚のご先祖様にご供養をしに菩提寺のお坊さんがやってくるので、縁の方と一緒にお参りするといいと思います。
それぞれの事情はあろうと思いますが、年長の人は年少の人に近く亡くなった故人のことや、ご先祖様のことを語ってほしいと思います。
小さい子は大人の姿をしっかり見ていますよ!普段そういった話をする機会が少ないならなおさら年に一度のお盆の期間を使ってみてください。
目連尊者の話
目連というお釈迦さまの弟子の盂蘭盆にまつわるエピソードを紹介します。『盂蘭盆経』というお経に記されています。
目連さんは神通力に優れた人でした。
目連さんはある時神通力を使って亡き母の様子を見ることにしました。
すると母は餓鬼の世界におり、苦しい思いをしていました。水を飲もうとすると暑さで熱湯に変わり、蒸発してしまうのです。
その光景を見た目連はお釈迦さまにどうしたら母を救えるか聞きました。
目連の母は生前に目連の飲み水を確保するために、水を求めてきた人に分けることをしませんでした。
なのでお釈迦さまは安居が終わるとき僧侶たちに食べ物を布施しなさいと言いました。
その通りにすると、その布施の功徳(追善)で母は救われたと言います。
この故事に基づいて盂蘭盆会が行われるようになったとも言われています。
『盂蘭盆経』は中国成立です。
いま、祖霊信仰を考える
祖霊信仰を考えた時、私はいのちのバトンや生命倫理、義務的な親孝行観などがマイナスイメージの原因になり得ると思いました。または、単にあまり興味がない方も多いかもしれません。
祖霊信仰を支えていた背景に家族の文化があります。おじいちゃんおばあちゃんにお母さんお父さん子供たちがいて、それぞれが家族というコミュニティのなかで役割を持っています。
現代においては家族文化は大きく変わり、核家族や単身世帯が増えました。年長者は語る機会が減り、年少者は「聞く」機会が減りました。つまりそれはお互いの思い出が少ないということです。
思い出がなければ思い出すことも思い出してもらうこともできません。それは寂しいと私は思います。私は思い出したいし、思い出してもらいたいと思っています。
皆さんはいかがでしょうか。
少し話を戻して、先ほどいのちのバトンや生命倫理、義務的な親孝行観と書きました。
なぜこれらをマイナスイメージの例にしたかというと、これらには共通してある種の強迫観念が付くことがあるからです。
義務的な親孝行観で祖霊信仰の強迫観念を説明してみます。
先祖とは祖父祖母のさらにさかのぼった自分の血縁のルーツです。それを現代に近づけると両親が一番近い自分のルーツになります。
先祖を大切にすることを拡大延長すると親を大切にすることになってきます。つまり親孝行することが大事かのような雰囲気になってきます。
もちろんそれはとても素敵なことです。
さて、ここまでではマイナスになる話はありませんが、世の中には毒親と呼ばれる親がいます。
DV、ネグレクト、虐待等深刻な問題が親孝行の前に立ちふさがります。毒親にも孝行しなくてはいけないのか。自分を生んだ親に絶対に感謝しなくてはならないのか。
仏教では生は苦しみです。親は子を選べませんし、子も親を選べません。すべては縁です。毒親のもとに生まれたら苦しい生活です。苦しみからは脱却しないといけません。毒親に孝行なんて苦行ですもん。
また仏教では命が大切とは言いません。大切なのはあなた自身です。救いの手は必ずあるはずです。
結局のところ、毒親に孝行する必要はないし、まして生んでくれてありがとうと無理に思う必要もないです。
しかし、自分でつなげておいてなんですが、祖霊信仰と自分は親(祖父母等の血縁のある人間)が嫌いだから祖霊信仰できないとは考えないでもらえたらと思います。
血縁は縁の中の一つです。
縁は無数に私たち身近にあります。血縁が一番ではありません。まずは自分が大切にしたい縁をみつめてみたいですね。祖霊や先祖とずっと言ってきましたが、祖霊信仰は究極的には縁の信仰だと私は思います。
お盆やお彼岸、法事などをご先祖様のことを広い視野で、いろんな角度でとらえる機会にしていきたいと思ったりします。
自分にとって大事な人のご先祖様に思いを馳せるのも素敵なことだと思います。
お盆のいろいろを勉強してみました!
分かりにくいところは調べて、教えてください('ω')ノ
それでは今回はこれで、ごきげんよう。