現代社会と「稽古する」という考え方
先日、なんとなく書店で本棚を眺めていると『稽古の思想』(西平直 著 春秋社)という本を見つけました。
面白かったので紹介したいと思います。
稽古というと茶道や華道、武道といった○○道といっしょに使われるイメージですが、「稽古」という考え方が現代に…というと大げさかもしれないので、私には必要だと思いました。
漢字辞典を引くと
稽古とは、いにしえを考ふと読むようです。
なにやら深そうな感じです。ではなにやら深そうな稽古について考えてみたいと思います。
稽古の出発点
『稽古の思想』は「うまくゆく時、ゆかぬ時」から始まります。
日常的にうまくいく時といかない時ってしょっちゅうありますよね。なぜかわからないけどうまくいく時はうまくいくし、うまくいかない時は本当にうまくいかない。
仕事やスポーツを考えるとイメージしやすいかもしれません。
それはたまたまなのか、それともなにか原因があるのかを考えてみたのがこの本の著者の方だと思います。
私は学生の時部活動でソフトテニスをやってまして、結構熱心に取り組んでいました。初心者の間はラケットの振り方やボールを打つ時のフォームを教えてもらいました。「型」を習っていたということです。
徐々にいいボールを打てる時と打てない時の違いがわかってくると、フォームの崩れているところを修正して、また練習しての繰り返しでした。
段々とボレーやスマッシュなどの「わざ」を覚えて試合にも勝てるようになりました。
スポーツや音楽、芸術などの経験者の方は、「今日の自分めちゃくちゃ調子がいい」「今までで一番の出来の日」みたいな経験があるのではないでしょうか。いわゆるゾーンに入ったと言うような感覚です。
そういう時は練習してきたことが発揮されたり、もしくは練習以上のパフォーマンスが出来たりしています。それで負けることもありますが。
しかし、別の日には練習してきたことが全く出せず、練習でしたことのないようなミスがでることもあります。調子の悪い日ってことですね。相手や試合の規模等の外的要因は考えず、自分のパフォーマンスに焦点を当てて考えてください。
ちょっとネタバレです…
桜木花道は強豪の翔陽と決勝リーグ進出をかけて試合をします。花道はこれまでの試合でことごとく退場になっている状態でした。試合終盤に渾身のダンクを決めますがファウルをとられ退場になります。しかし、そのプレイは普段のパフォーマンス以上のものでチームを盛り上げ、勝利に貢献しました。
花道はダンクを決めた感想を聞かれましたが、「夢中で…」とお調子者らしからぬコメントをしています。
そう!これ!無我夢中だった。ブロックされないようにとか、ファウルに気を付けるとか、何歩でジャンプするとか考えずに夢中でプレイした結果が素晴らしいパフォーマンスだった。体が自然にそう動いたということだと思います。
そういった体の動きや心の動きを可能にするのが稽古です。
では練習と稽古どこが違うのって話ですね。
練習と稽古
言葉にはっきりとした定義はなく、一義的な説明はありません。訓練や修行といった言葉もありますが、ここでは練習と稽古で言葉の違いを考えてみたいと思います。
私は練習も稽古の一部に入っていると思います。しかし、練習のみをもって稽古とは言えません。
練習の目的は何でしょうか。
スポーツなら上手になるため、勝つため、お金のため、いろいろな目的があると思いますが、前提として本番があります。本番のために練習しているはずです。
本番だと思って練習しなさいとコーチに言われることもあるかもしれませんが、それも本番のための対策です。練習中に今日が本番だと言われることはあまりないのではないでしょうか。
では稽古はどうでしょう。
浦飯幽助は幻海師範のもとで霊光波動拳を習います。幽助は素人なので基本の型から教わります。その中で幻海師範に心を一つにするという教えを受けます。これは散漫な心を統一することもそうですが、体と心を一致させることを示しているように思います。
武道の心得に身心一如という言葉がありますが、まさにそれです。
幻海師範は敵に勝つために心を一つにすることを幽助に伝えたわけではありません。自分が間違わないように、健全に生きていくために必要だから伝えたはずです。
わざを学び、習うプロセスの中で体と心を身につけることが稽古するということだと思います。つまり、常に本番です。人生に練習はないと誰かが言っていましたが、稽古には本番か本番以外かという発想はないのではないでしょうか。
これが練習と稽古の違いだと思います。
しかし、稽古はいきなりできるわけではなく、練習というステップを経て初めてたどり着ける領域です。
なのではじめに練習は稽古の一部に入ると言いました。しかし練習のステップを越えなければその練習を稽古と呼ぶことはできないでしょう。
ではどうやって練習から稽古の領域に入るのか…
稽古の領域
稽古=練習+脱練習
本書に出てくるキーワードです。
脱練習とはいったいどういうことかというと、練習から離れることです。
本書の言葉を借りると、練習はスキルの習得で脱練習はアートの出現です。アートとは想像性であり創造性を指します。
桜木花道に戻りましょう。
桜木花道はバスケ部に入部すると、ドリブル、パス、シュートの基礎(型)を徹底的に叩きこまれます。このスキルを練習により習得していきます。
はじめてドリブルシュートを決めた時、花道は高く飛んでボールをリングに置いてくるというイメージを頭に思い描いていました。
一方高校ナンバーワンプレイヤーの沢北はへなちょこシュート(花道命名)を自然体で打ちます。このシュートは基本にはなく、試合の中での工夫によって生み出されたまさにアートのようなプレイです。ここに脱練習のヒントが見えます。
もうひとり例を出しましょう。
はじめの一歩の鷹村さんです。
鷹村さんはどんな体勢でも必殺パンチを打てる型破りの天才ボクサーです。その試合はアートと言っていいと思います。しかし、上には上がいるもので強敵ブライアン・ホークは鷹村以上の型破りボクサーでした。苦戦を強いられた鷹村の突破口は基本(型)に忠実な左ジャブでした。型破り(脱練習)の天才ボクサー鷹村のバックボーンには、基礎の積み重ね(練習)があり、それを自由自在に使いこなすわざ(稽古)がありました。
ホークのセコンドから「バイオレンスとサイエンスの融合…これぞボクサーの理想形だ。」と言われるほどです。
型を守ること(練習)、型を破ること(脱練習)、型を離れること(稽古)
この三段階が稽古の領域へのステップです。守破離ですね!
これは一方通行のルートではありません。
千利休は
「稽古とは一より習い十を知り、十よりかえるもとその一」と言っています。
練習と脱練習を繰り返し、ようやく型を離れ、自由自在になれるということだと思います。
稽古の境地 身心脱落
意味は、身心が一切の束縛から解き放たれて自在の境地になることです(『岩波仏教辞典第二版』)。
身心脱落を稽古の方程式に当てはめてみると例えば、
身心脱落(稽古)=坐禅・脚の組み方・呼吸の調え方など(練習)+坐禅・無心無体・言葉を離れる(脱練習)
となります。
坐禅の方法を頭で考えて実践する練習の段階と心と体を坐禅の方法で縛り付けることをやめる脱練習の段階を行き来し、身心が自由自在になる稽古の段階になります。
身心脱落は稽古によって体への執着や心に湧き出る欲を濾過した境地になろうかと思います。
現代に稽古したい
ここまで書いててもなんだかごちゃごちゃしていて到底わかりやすい気配がありませんが強行します。(笑)
身心脱落は執着や欲を濾過した境地だと言いました。
そこに見えてくるのは、本質的な個性、ありのままの姿だと言えると思います。個性を尊重するとよく言いますが、そこでいう個性はエゴに満ちたものではなく、ありのままの姿であり、もっとピュアなものだと思えます。
自己主張が強いとか、自己顕示欲がないとか、自分や他人が個性というレッテルを貼ったところでそれは本質的な個性ではない気がします。
ありのままの姿はそのままの姿でいいという怠惰ではありません。ありのままの姿になるためには稽古が必要なのだと思います。
現代社会のなかで練習の(型の習得の)機会はたくさんあります。
桜木花道のバスケット人生をすべて型と考えることもできます。ミクロにもマクロにも応用できる稽古の考え方です。
今練習していることが一体何のためなのか、問い直してみるのもいいかもしれません。
コロナ禍で部活動の大会が中止になって、せっかく練習したのに残念だったねと終わらせるのか、どうか。
稽古の守破離実践していきたいですね!
いろいろな場面で人生を稽古できたらいいなと思います。
いかがでしょうか!(笑)
個人的に難しい題材でした…まあよしとしましょう!
それではごきげんよう(^^)/