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死生観の刷新 ~『死ぬ練習』南直哉著を読んで~

 

 「生き甲斐がない」は「死に甲斐がない」と同じ。 

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いきなり仰々しいですが、今回は先月刊行された南直哉さんの著書『死ぬ練習』を読んだ感想を私自身の考えを交えて書いていこうと思います。エッセンスを抽出したいと思っていますが、本の紹介ではないです。概要が知りたい方はお買い求めください。(笑)

それが確実です。

 

死ぬ練習

死ぬ練習

  • 作者:南 直哉
  • 発売日: 2020/08/27
  • メディア: 単行本
 

死生観(ししょうかん)についての話です。

予め断っておきますが、この本は感情的に情緒的に読まない方がいいです。

ショックを受ける恐れがあります(笑)

心構えをしてから読むと楽しめるかもしれません。

 

 

自分の意味

ああ、とてつもなく哲学的ですね。でも哲学します(笑)

人間は誰しも存在価値を求めています。自分(自己)への渇望があります。

自分がいる(いた)という意味を見出したくて必死です。

そして面白いのは、自分の存在を担保してくれるのは他者です。自分自身では自分の存在を証明できません。

職場、家庭、友人、恋人などなどが私を私と認識してくれることによって、私は自分がいると思うことができます。

もし、明日から急に世界中の人が私を織田信長だと認識したら私は崩壊します。

 

自己の普遍性を求めるが故に、おかしなことにもなってきます。

差別問題や周囲の人間関係の歪もここに原因がありそうです。南さんが本書で触れていた例を引用させてもらいます。(けっこうよく聞く話です)

 

ある講演会で講師が

「皆さんは親を選んで生まれてきました」と言ったそうです。

はて?選びましたか?選んだ覚えないですよね。

ですが、聴衆も多くはうなずきながら聞いていたそうです。

お父さんもお母さんも大好きですって人はまあいいでしょう。そのまま幸せっぽく暮らせたら何よりかと思います。(皮肉じゃないよ)

そうしたらば、ネグレクトやDV当たり前の親元に生まれた子供はわざわざその親を選んだと?

親抽選会で人気の親のところは落選して、余りものに回されたと。笑えるジョークです。なんの根拠を持って言うのか聞いてみたいです。

そこまでしてでも、自分の価値を見出したいと思っているということです。

 

そうは言うけど自分って現実に存在してますよねっという声も聞こえてきそうなので、もう一つ例を挙げます。

 

古いアルバムにおじいちゃんの赤ちゃんの時の写真があったとします。今目の前のおじいちゃんといっしょに見えますか。

見えません。その赤ちゃんをおじいちゃんだと認識している人がいるから、おじいちゃんの昔の写真だとわかるわけです。

 

つまり、自分の存在の根拠というものはありません。根拠がないから不安になります。そして自分に意味を見出したい欲望が生じます。

自分の存在の根拠を求めたい欲の背景にあるのが「死」です。

もし永遠に死なないのであれば「生」という概念は消滅します。それはいつでもなんでもできることになり、自己(自分)の消滅(世界に溶け込むようなイメージ)を意味します。あんまり詳しくないけど、人類補完計画みたいな状態になります。(違うかも)

 

「死」があるから、できることとできないことが人生の中にあり、それを選択する自由があります。生きているから死ぬのではなくて、死ぬから生きていられることになる…

 

はい、難しい話になってきたのでやめます。ブレーンストーミングはこの辺でいいでしょう。

 

では頭を切り替えて、次!

 

死と生

「命は大切です」

「なんでですか?」

さあ、答えることができますか。

 

「命は大切です」のことばの陰には、死を遠ざけたい感覚があると思います。

神道では死を穢れと考える思想があったことが影響しているかも)

死にたくないから、生きたいから、命は大切なのか。なぜ死にたくないのか、なぜ生きたいのか、答えのあるのかないのかわからないような疑問が次々に出てきます。(今は自死の話は言及しません)

 

では「死」とはそもそも何でしょうか。

心臓が止まることか、脳が活動停止することか、世の中から忘れられることか。

「死」を考えるとき3パターンに分けることができます。

➀死ぬ前 ②死(そのもの)③死んだ後です。

 

「死ぬって何?」と聞かれたとき語られるのは、死ぬ前後の話です。

苦しいとか安らかとかは死ぬ前の話で、天国や地獄に行くというのは死んだ後の話です。死そのものを語る人はまずいません。それは当然の話で、誰も死んだことがないからです。南さん的に言う「絶対的わからなさ」を持つのが死です。なので死は現象ではなく、観念に過ぎません。

 

わからないから、妄想します。そして、こうあって欲しいという希望を哲学や宗教に求めたりするわけです。

死後、極楽浄土に行きたいという思いはまさに、「わからなさ」を補填してくれるものに魅かれていることになると思います。

 

今が楽しければいいと死についてあまり考えない人は、死を意識するような状況になって初めて不安感に駆られるのではないでしょうか。

 

なんにしても現代社会は「生きることは素晴らしい」「死ぬことはよろしくないこと」と考える傾向のようです。

 

はい、それは間違っています。

生死(しょうじ)そのものに良い悪いはありませんので、別に生きていることは素晴らしいことではありません。かと言って死ぬことが素晴らしいわけでもないですが。

 

等価値です。

衝撃的じゃないですか?(笑)

 

言葉を補っておきますが、

生を否定しているわけではありません。死を否定しているわけでもなく、両方を肯定しています。

身近な人が亡くなれば悲しいし、大手術に成功し一命をとりとめれば嬉しいです。

しかしそれが成り立つのは主観(自己)があるからです。(だんだん難しくなってきました…)

 

はじめの問いに戻ります。

「なぜ命は大切なんですか」

 「いいえ、大切なのは命ではありません。大切なのはあなたです。」

 

 

 

生老病死

お釈迦さまは世の中の苦しみには生老病死の4つがあると考えました。

生まれて、老いて病になり、死んでいくという時間軸を考えがちですが、これに時間軸はありません。

まあそうですよね。

災害や事故などは時間軸に関係なく死に至ることがあります。

 

つまり、確約された未来はありません。年齢と死に因果関係はありません(死に方に影響はあるかもしれません)。私たちは死に向って進んでいるわけでも、死が私たちに近づいてくるのでもなく、死はいつも一緒にいます。お隣さんです。

 

しかし私たちは死はいつか来るものと考え、いつかは遠い未来のように思っていたりします。

四月は君の嘘 僕と君との音楽帳

四月は君の嘘』という作品があります。

ヒロインは余命数か月の病を抱えていました。死をリアルに、ごくごく近いものとして感じていたと思います。

彼女が死ぬ前にとった行動は、精一杯に生きることです。主人公と音楽に打ち込み、何気ない日常を大事にしました。

 

これは南さんが分類する死に方のなかの、

死の回避に当たります。彼女は生きた証を残し、その過程の中で死に呑み込まれる形をとりました。よくドラマや映画になるパターンのやつです。

他には、死への慣れと、死の受容という分類がありまして。

端的に言うと慣れは老衰を指し、受容というのはやるべきことはやり切ったという状態です。詳しくは本書で。

受容を例えるなら、ワンピースのゴール・D・ロジャーが海賊王になって処刑されたことでしょうかね。思い残すことはないみたいなことだと思います。

 

年齢が若いこととが死が遠いことではないことが確認できたと思います。例は映画や漫画ですが現実に少ない話ではありません。

 

さて、ここで考えてみたいのは、当人の死ではなく、他者として誰かの死にかかわることです。さっきの話で言えば、ヒロインではなく主人公視点です。

 

他者の死をどのように受け入れていくのかですね!

 

死者は実在する

スピリチュアルな話は一切ありません。

霊がいるかいないかを言及することにあまり意味がないからです。

 

南さんは本書において、死者と死体と遺体の話をされています。

 

死体は物体です。ものです。以前何者かだったものです。

災害時などに「死者10名です」というところの死者は死体のことです。そこで重要なのは数字だからです。しかし、その死体に人格を持たせるとそれは遺体となります。

 

例えば『北斗の拳』でケンシロウに殺された有象無象の衆は読者にとって死体です。その死体がケンシロウの仲間のレイだった時それはレイが好きな読者にとって遺体になります。少し極端な言い方ですがそういうことです。

 

遺体 明日への十日間

遺体 明日への十日間

  • 発売日: 2014/06/18
  • メディア: Prime Video
 

 3.11東日本大震災のドキュメント『遺体 明日への十日間』のなかで、

「これは死体ではないですよ。ご遺体ですよ」というようなセリフがあります。遺体安置所での一コマでしたが。

死体は私たち生きている人間が尊厳(人格)を持って関わることで遺体となり、故人が遺した体になります。

 

では死者はどうでしょうか。

まず、自分が死んで死者になることはありません。???となりそうですが(笑)

自分が死者になる(幽霊的なものになる)ことはありません。というか知りません。

 

死者は生きている人間によって死者として認識されるからです。他者が死者を死者たらしめることになります。オカルトじゃないよ。

 

四月は君の嘘』に戻ってみます。若干ネタバレあるかも…

ヒロインが生前遺した言葉や音楽は、ヒロインの死後主人公に大きな影響を与えています。それはヒロインが生きていた時に主人公に与えた影響とは異なる影響です。

 

ここ大事だと思うので掘り下げようと思いますね。

 

主人公有馬くんとヒロインかをりちゃんは恋人といかないまでも、お互いに想い合っていました。二人の関係の中に愛情がありました。相手の存在に救われる関係だったと思います。

そしてかをりちゃんが死んだことで、生きている人間同士の想い合う関係は消えます。その関係が消えたことが受け入れられない状態は苦しい状態です。死を受け入れられていないということです。茫然自失。絶望。いろいろな言葉が当てはまるかと思います。

 

有馬くんもそうだったと思います。

生きているときは、「こうありたい」「こうあって欲しい」という欲があったはずです。思い通りにしたいという欲求です。

それが死んだ人にはまったく通用しません。それが受け入れられず苦しくなります。

かをりちゃんの死後、有馬くんはかをりちゃんからの手紙を読むことになります。

ここで有馬くんは死者としてのかをりちゃんを受け入れられたのではないかと思います。死者としてのかをりちゃんと新たに関係を結び直しました。

 

最後、手紙を読んでいるときかをりちゃんの演奏が聞こえる演出だった記憶していますが(違うかも)、それはまさに有馬くんの前にかをりちゃんが死者として現れた瞬間であるのではないでしょうか。

もちろん悲しいし、寂しいです。しかし死者と新たに関係を結ぶことで徐々に悲しさは懐かしさになっていき、死者も死者として育っていきます。(と書いてありました)

私もそう思います。

 

そのあたりのエピソードもいくつか本書に登場します。

 

そういう意味でお釈迦さまも死者として現代の仏教に多大な影響を与えています。死者として関係を結び、リアルに実在していると言えます。

「私の中に生きている」というのも近い考え方だと思います。ポイントはその人の死を認め受け入れているかです。

 

新たに関係を結び直す場が葬儀や法事、仏壇に向かうときだったりします。

今後、葬儀や法事の場に赴く際にはそういう気持ちを持つと発見があるかもしれませんね。こういった儀礼は、生きている人のためのものです。死んだ人のためではないとあえて言っておきたいと思います。

 

その人が死者となったことを認め、新たに関係を結び直すことは容易でないことも多いです。

しかし、新たな関係を結び直さなければ、心は凍結したままになってしまいます。

 

そこには赦すことが大事になってきたりしますが、これもここでは言及せず、今後に回したいと思います。

 

死の形のいろいろ

死にはいろいろなケースがあります。

病死、事故死、自然死(老衰)、安楽死尊厳死自死脳死、他殺などがあげられるでしょうか。

いくつかは本書でも触れられていますが、安楽死尊厳死について少しここでも触れておきます。

 

経験値が乏しいので想像の域を出ませんが、

安楽死は、病気などで余命がいくばくもなく、身心は苦しい。

死んだ方が楽になる、生き甲斐がもうないという発想からくる選択だと思います。

冒頭で「生き甲斐がない」は「死に甲斐がない」と言いましたが、それはこのことです。

死と生は等価値であると先述しました。等価値であるならわざわざ、他者の助力を得てまで安楽死を選ぶ理由がありません。

尊厳死は延命をやめ、自然に訪れる死に委ねます。他者に死ぬための助力を求めることもありません。大きな違いです。

 

非常にセンシティブな話なので、説明不足、言葉足らずになると困るので割愛したいと思います。

 

もっと詳しく勉強したい方は『死ぬ練習』の購入をお勧めします。

 

死ぬ練習

 

最後に仏教的(南さん的)死ぬ練習を見ていきます。

ポイントは坐禅と慈悲行の二つです。

仏教(とりわけ禅宗)には「放下(ほうげ)」という言葉があります。

身心にまつわる一切とそれらの原因になるものを捨て去るという意味です。

 

人間は根源的に、思い通りにしたいという欲望(煩悩)があります。

「絶対的わからなさ」を持つ死はその欲望の天敵です。わからないから思い通りにすることはできません。そこからの脱却に一役買うのが坐禅というコトらしいです。

こればかりは坐らないとわからないということなので、私も坐らないといかんなと思っています。

前回、稽古の話を書きましたが、

 

prajna.hatenablog.com

 これと似たような話で、死に対して自分(自己)という感覚を自由自在にすると、こだわりが自然と小さくなっていくのではないかと解釈しています。

 

もう一つは慈悲行です。

慈悲も他者がいなければ成り得ません。思い通りにしたいという欲望は他者に対しても同様にあり、他者を所有したい欲望とも換言できます。

 

例えば、友達がいます。

「あいつはこういうやつだ」とわかっている。

その「わかっている」にはその友達を思い通りにできるという意識が働いています。

自分がやらなくてもあいつがやるだろ。みたいな感覚でしょうか。

前はやったかもしれないけど今はやらないかもしれないです。無常ですから!

 

当然のことながら、人間は誰かの所有物ではありませんし、いくら友達といえどその人を100%わかっているなんてことはありえません。

「わからなさ」を持っているものは所有物にはなりません。ここで言う「わからなさ」はわかるかわからないかがわからない「わからなさ」です(笑)

なんのこっちゃ(笑)(笑)

 

 

その「わからなさ」が大事で、そこに敬意を払う、想像力を働かせて接することが慈悲行になります。

今度は他者に対して自己という感覚を自由自在にするということになろうかと思います。

 

終りに

頭を悩ませる話が多かったですが、いかがでしょうか。

まったくわかりやすくもなく、消化不良感も漂っています。文章力の低さに悲しくなります…

 

自分の思考整理のような形になりました。

笑い要素も泣き要素も考え要素もある本でした。

 

死と生は分けては考えられないものです。

 日日是好日の話でも書きました。

prajna.hatenablog.com

 

「死はいつか来るものではなく

            いつでも来るものなの」(樹木希林

 

生死一如。

死にも生にも蓋をしないで向かい合っていきたいです。

 

 

それではごきげんよう(^^)/

 

今度はもうちょっと的を絞って書こうかね!

あと読み直ししてないので、誤字脱字意味不明があったらすんません(笑)