日日是好日

ひらめいたテーマをつらつらと

禅のことば散策①「日日是好日」

盛夏の7月になりました!

暑かったり雨だったりで、体調も崩しやすい時季ですが皆さんいかがお過ごしでしょうか?

 

今回はですね~

また思いつきで禅のことばを散策してみようのコーナーを開催します!

いまさら聞けない!シリーズもまたそのうちに書きます。

 

お付き合いください(^^)/

禅のことば散策①は日日是好日」(にちにちこれこうじつ)です。

さあ、行ってみましょう!

 

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例によって、たくさんの考え方の中の一つとして読んでくださいね!

 

禅のことばってどんなことば?

まずはここをおさえておきたいと思います。

禅とは…と、語りだすと長くなるので、

ごくごく簡単に言いますね。

禅とは、坐禅のことです。つまり修行方法です。心身を調える修行というとイメージがしやすいと思います。

皆さんは禅問答という言葉を聞いたことがありますか?

誰かの会話を聞いて、禅問答のようなやり取りだと思ったことがある人もいるかもしれません。つまり意味がよくわからない問答ということですね(笑)

 

本来の禅問答はそのまま禅のお坊さんの問答という意味で、わけのわからないことという意味はありません。

傍から見るとわけがわからなかったもんでそういう風に定着してしまったんでしょう。

 

ではここで禅問答の例を出しますね。

現代風アレンジバージョンです。

 

 

喫茶去(きっさこ)「まあ、お茶を一杯どうぞ」

 

けーくん(あなたの幼なじみ。明るいけどよく黄昏ているちょっと変わった友達)は、ある日、

「お寺に行って修行しよう」

と思い、近所の禅寺へ行きました。

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『お茶にごす』5巻より

けーくん「修行しに来ました」

住職「あなたはここへ来るのは何回目ですか?」

けーくん「はじめてです」

住職「そうですか。まあ、お茶を一杯どうぞ」

 

~数日後~

禅寺での修行から帰ったけーくんは、もう一度修行に行きたいと思いました。今度は友達のまーくんも誘いました。

 

けーくん「また修行させてください。今回は友人を連れてきました」

まーくん「よろしくお願いします!」

住職「ここに来るのは何回目ですか?」

けーくん「二回目です」

まーくん「はじめてです」

住職「そうですか。では二人ともお茶を一杯どうぞ」

弟子のえーさん「けーくんは二回目なのでお茶はいいんじゃないですか?」

住職「えーさん、お茶を一杯どうぞ」

 

はい。

いかがでしたか?喫茶去という禅語のお話でした。

住職は何が言いたかったんでしょうね。わけが分からないとはこういうことです(笑)

 

そのままに受け取れば、みんなを平等にもてなす住職の人柄を示す話に見えます。

ではちょっとひねって受け取ってみようと思います。

お茶には作法があります。

はじめて来た人にお茶を出すのは、その人がどれほど作法をわきまえているか見るためかもしれません。

二回目の人にお茶を出すのは、一度目からどれほど成長したかを見るためかもしれません。

いつも一緒にいる弟子にお茶を出すのは、今日の弟子の調子を観察するためかもしれません。

 

答えはわかりませんし、確かなものはありません。

しかし禅問答のことばの後ろに隠れた真意を探さなければならないのは間違いないと思います。喫茶去。皆さんはどう解釈しますか??

 

つまり禅のことばとは、字義通りではない、浅からぬ意味を含んだことばということです。

 

禅のことばの雰囲気が掴めたところで、話を進めていきましょう!

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日日是好日の意味を探ろう

さっき禅のことばには隠された意味があることがわかりました。

では日日是好日にはどんな意味が隠れているんでしょうか。

 

今回は問答の部分は割愛させてもらいます。問答の中に出てくることばなので文脈が大切じゃないの?と思われる方もいると思いますが、あしからず。

問答が気になる方は『碧巌録』という禅語録の第六則を調べてみてください!(丸投げ御免!)

 

解釈その1

 

とりあえず字義通り解釈してみましょうか。

「一日一日が好い日である」でいいと思います。ほんとにそのままです(笑)

 

さてこのことばにどのような印象を持ちましたか?

私は初めてこのことばを知った時、なんとなくポジティブな感じの印象を持ちました。

しかし、何も上手くいかない日が来たとき同じことが言えるのかって話ですよ。たぶん無理でしょ。ポジティブなイメージがあった分余計に綺麗事に聞こえてきます。

 

そう考えるようになった私は困りました。「日日是好日」に説得力がなくなったからです。そこでもうちょっと考えてみようと思いました。

 

みなさんも一緒に考えてみてください。このことばに隠された意味はなんでしょうか。

 

解釈その2

 

私は漢字に注目してみました。

  • 「日日」はなぜ「にちにち」と読むのか。「ひび」じゃダメなのか。
  • 「好日」もなぜこの字を当てたのか。「良日」じゃダメなのか。

この漢字問題を考えるとモヤモヤが晴れていきました。

 

これも印象の話ですが、

「にちにち」には独立性、「ひび」には連続性がの要素が強いような気がします。

「その日その日」と「毎日」と置き換えると少しわかりやすくなります。

 

そして、想像ですが「良日」ではなく「好日」を使った理由は、「好日」に良い悪いを超えた意味を持たせるためだったのだと思います。「良日」を使えば「悪日」という発想がセットでついてきてしまうので「好日」としたのではないでしょうか。

 

もう少し言えば「好日」の中には良い日も悪い日も含まれています。

 

何が言いたいか見えてきませんね(笑)

 

そんな時はたとえ話です('ω')ノ

 

ワンピースが使いやすいのでワンピースから(笑)

 

主人公のルフィが船長を務める麦わらの一味は、東の海から海賊の墓場と言われるグランドラインに航路をとります。

グランドラインは天候の予測ができず、東の海では想像ができないほど過酷な航海になります。

そんなとんでもない海にあっても麦わらの一味は陽気に波を超えていきます。

嵐が来たからと言って今日は悪い日だと落ち込むことはありません。

晴れの日は晴れを楽しみ、嵐の日は嵐を楽しんでいます。

彼らにとって一日一日が命がけの好日であるということです。

 

私たちが良い日や悪い日だと感じるのは、連続性のある「ひび」の中で比較をしているからです。

今日は昨日より晴れているから良い日。今日は上司に叱られたから悪い日。それは叱られなかった日と比べてそう思うってことですよね。

 

それは一種のとらわれです。

「その日」自体には良いや悪いという性格はなく、「私」が色を付けているにすぎません。

日日是好日」にはそういった良い日悪い日というとらわれを離れて、一日一日を生き尽くしてみようよという隠された意味があるのではないでしょうか。

 

文字に起こすとのって難しいですね~

分かりにくくてごめんなさい!

 

 

好日を生きるために

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この写真は良い天気ですか?悪い天気ですか?

そうですね。好い天気ですね!

 

一日一日を生き尽くすと言いましたが、一朝一夕でできるものではありません。少なくとも私は急にやれと言われても…。です。

ですが、訓練することができます。

 私は最近、Instagramで空日記を始めました。

その日の空を撮って投稿しています。日ごとに違う空を観察するのが結構楽しくて、好い天気だなーと思いながら空を見上げています。

https://www.instagram.com/nanisora_/

 

 これがとらわれを離れる訓練になるかはわかりませんが、以前よりも心にゆとりができたような気はします(笑)

 

相田みつをさんの詩の中に

 

雨の日には雨の中を

風の日には風の中を

 

ということばがあります。

まさに日日是好日

雨の日には雨の中を歩けばいいし、風の日には風の中を進めばいい。

晴れの日に休憩してもいいし、雪が降れば雪かきすればいいんだって感じですかね(笑)

その日の精一杯の生き方をしたらいいんだなと。

でも、こうあるべきだと思っていると、風の日に外に出ようと思えなし、晴れの日に休憩してもいいと思えないかもしれない。

 

だから好日を生きるためには、少し勇気を出さないといけないですね!

今までこうしていたから今日も。

と思わず、今までこうしてきたから今日はこうしてみよう!と思える勇気とチャレンジしてみる勇気があればきっと!

 

「日日が好日である」と思いながら過ごせるんじゃないでしょうか。

 

感想ぜひ聞かせてくださいな。

 

今回も思いつくままにはじめて、なんとなく終わります(*'▽')

ごきげんよう(^^)/

 

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いまさら聞けない!仏教ってどんなもの? その2【仏教はこうして生まれた】

 

 

みなさんこんにちは!

 

その2【仏教はこうして生まれた】いってみましょう!

 

毎度のことですが、必ずしも学術的に何かを証明したり、分析したりすることを目的にはしていません。

 

なんとなく

へえ~とか

だよね~とか

え~とか言われることが目的です(笑)

 

ではお付き合いください。

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はじめに

これから仏教の誕生ヒストリーの覗きに行くわけですが、

手塚治虫さんの『ブッダ』を読んだ方が百倍面白いです(笑)

 

覗く前に

仏教の起源は約2500年前のインドのお釈迦さまという人物です。

 

とりあえず時代背景をおさえておきましょう、

みなさんご存じのカースト制度の社会です。

輪廻転生(りんねてんしょう:生まれ変わり死に変わり続ける)の世界観が常識です。

戦争も多発している時代でした。

 

カースト制度とはヒンドゥー教由来の身分制度です。

 

バラモン(司祭)

クシャトリヤ(王族)

ヴァイシャ(市民)

シュードラ(労働者)

アウトカーストアンタッチャブル

 

に分けられます。身分の高さは書いた順番通りです。バラモンというのはいわゆる神聖な力を持つとされる人たちでシャーマンみたいな人だと思います。

何で分けられたかというと、肌の色です。つまりは人種です。現在にも色濃く残る差別のもとはこんなに昔から私たちのDNAに組み込まれているんですね…

一筋縄ではいかないわけです。問題なのは制度よりも自分や相手を盲目的に分けたがる人の心の方ですね。非暴力主義を貫いたガンディーもカースト制度を擁護する立場をとっていたりします。

 

話がそれましたが、お釈迦さまが生きた時代は現代同様にいろいろな意味で過渡期だったのではないでしょうか。だからこそ新たな生き方を模索し、さまざまな宗教が芽吹いたのだと思います。

 

そんな背景を心の片隅におきながら出発しましょう!

 

 

お釈迦さまの生涯

王子様生まれちゃいました

さっそく生まれちゃいました。

お釈迦さまです。名前はゴータマ・シッダールタと言いました。

お父さんはシャカ国の王様でした。

お釈迦さまのシャカはシャカ国のシャカだったんですね。お母さんはシッダールタ王子を生んで数日後に亡くなってしまいした。

 

シッダールタ王子は生まれた時から、変わった赤ちゃんで、生まれてすぐに七歩歩いて天と地を指さし、「天上天下唯我独尊」と言ったそうです。

おぎゃとは言わなかったようです。

 

相当な変わり者として生まれたシッダールタ王子はお父さん王に大事に大事に育てられます。

末は歴史に名を残す大王か、はたまた人々を導くブッダ(悟った人)かと将来を嘱望されますが、お父さん王は出家なんてされたらたまったもんじゃないと気をもんでいました。

そんな過保護なお父さん王は、シッダールタ王子が宮殿から出ないように、シッダールタ王子が望むものはなんでも与えたとかなんとか…

 

そうして大きくなったシッダールタ王子は結婚してひとり息子を授かりました。

 

しかしこのころには、自分の人生に悶々としていました。

 

そしてある日、シッダールタ王子の人生を左右する出会いが…

 

出会ってしまったんです。

老いに、病に、死に苦しむ人に。そして、出家修行者に。

この時、29歳です。

いやいや29歳まで老いや病や死に会わないなんてあるかい!と思いますが、気にしない方向でいきます。

 

シッダールタ王子はさらに悩みました。

「私もこのまま老いて病にかかり死んでゆくのか…

そんな苦しいのはいやだ…なんとか救われる道はないか…」

 

思い浮かぶのは出家修行者の姿です。

 

「…私の生き方はあれしかない」

 

王子様出家しちゃう

シッダールタ王子出家しちゃいました。

家族のことは気がかりだけど、出家の道を選びました。お父さん王は当然連れ帰ろうとしますが、ついにそれはかないませんでした。

 

シッダールタ王子はシッダールタになりました。

この時代は出家が流行ってましたので、シッダールタは有名な仙人の弟子になろうとしました。

そして弟子入りし、修行をおさめますが、まだ苦しいままです。

 

困ったシッダールタは、出家修行者が苦行をして生活しているところを目指しました。

苦行というのはぶっ飛んだ修行です。いばらの上で坐禅したり、息を止め続けたり、食事をとらなかったり、太陽を見つめて目をつぶしたりとおよそまともな精神じゃ生きていけません。

というか死にます。

しかし、彼ら苦行者にとっては苦行において死ぬことはこの上ないめでたいことなんです。

 

シッダールタはこの異常ともいえる環境で6年間を過ごします。

仙人の修行はさっさとおさめた天才は苦行に可能性を見出したのでしょうか。

ついにガリガリに痩せこけて倒れてしまいました。

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衰弱したシッダールタを助けくれたのは、スジャータという町娘でした。

乳粥を食べたシッダールタは健康を取り戻し、苦行では自分は幸せになれないと考えます。

 

そして、菩提樹の木の下で、ひとり瞑想するのです。

 

シッダールタはブッダになりました

ひたすらに坐るシッダールタはさまざまな思いに駆られます。

祖国の家族は元気なのか、今日のご飯何にしようか、と思ったかはわかりません。

たぶん眠れない夜には考え事しちゃう感じだと思います。

 

そうして坐り続け、35歳で悟りました。修行の完成です。

シッダールタはブッダになりました。一切の苦しみから解き放たれたブッダ大変喜んだようです。

 

ブッダは満足しました。

めでたしめでたし。

 

最期を迎える

ブッダになれてよかったですね!

 

ちょいちょいちょい!

 

はい。それで終わりじゃ仏教は広がりませんね。

しかし、シッダールタは自分が苦しみから解放されたかっただけなので、目的が実現したいま、望むものはありません。

 

そんなブッダのもとにお告げがきます。

 

「ひとりで喜んでないで、みんなにもそれ教えてやんなよー」

 

なるほどわかりました!

ブッダは教えを広めるため旅に出ました。

次第に弟子ができ、増えていきました。

 

それは僧伽(そうぎゃ・サンガ)と呼ばれる教団になっていきました。僧という言葉のルーツはここにあったんですね。

 

ブッダには身の回りの世話をしてくれるアーナンダという弟子がいました。

アーナンダはブッダの旅を25年にわたって支えたと言われています。

 

ブッダは80歳になっていました。

いくら悟りを開いたと言っても人間である以上、歳をとれば病気にもなります。

苦しみに支配されることはありませんが、肉体的な制限はあります。

 

そして旅の途中で入滅されました。ブッダは最期までアーナンダに教えを説いたのではないでしょうか。そのあたりの詳しいことは『大パリニッバーナ経』に書かれています。訳本があると思いますので、興味のある方は探してみてください。

 

ブッダという道しるべを失ったサンガはブッダの説かれたことをまとめようと集会を開きました。

集まった弟子たちはブッダの言葉を編纂していきます。その中核をなしたのが、ブッダの側近であったアーナンダでした。

 

そうしてできたものを「経」といいます。

 

仏教はブッダだけではなく、多くの弟子たちのお陰で形作られていったんですね。

 

やがて弟子たちにも弟子ができ、教えは伝えられていきます。

紆余曲折を経ながらも、脈々と受け継がれて今の私たちに至ります。

 

今も生きる仏教

ゴータマ・ブッダの生涯と仏教誕生の流れが雰囲気わかりましたね!

ゴータマ・ブッダの説いた仏教は、国境を越えてチベット、中国、朝鮮、日本と広がっていきます。

 

土地や時代が変われば、人々の関心も変わります。

そこでまた様々な派閥に分かれることになります。日本にはいろんな宗派がありますね。

そのどれもがゴータマ・ブッダをルーツにした生き方のバリエーションだと思います。

ゴータマ・ブッダの教えがいろいろな形で現代に生きている感じがして、なにやら壮大な感じです!

 

ではなぜ今まで仏教は世界中で親しまれてきたのでしょうか。

シンプルに教えがすごく合理的で心に響くからだと思うんですが、

もう一つ大事な要素があると思います。

 

ゴータマ・ブッダは人間であったということです。

人が人生に悩み、それを乗り越えるために試行錯誤してたどり着いたんです。

めちゃめちゃリアルじゃないですか?

シッダールタ王子は非凡な方であったと思いますが、私たちと同じように悩み、苦しむ一人の人間だった。

つまり、私たちが悩んでいることと同じようなことを悩んだはずです。

だからこそ、ブッダの教えはリアルな言葉として、長い間親しまれてきたのではないかと思います。

 

苦しくてどうしようもない時、仏教の中にある生き方を頼ってみるのもありかもしれませんね!

 

次回予告

いかがでしたか?

まあやっぱり手塚治虫さんの『ブッダ』をおすすめします。(笑)

 

次回何にしましょう。また後で考えます。

 

それではごきげんよう(^^)/

 

 

 

 

 

いまさら聞けない!仏教ってどんなもの? その1【仏教って何ですか?】

 

 

みなさんこんにちは! 

ろくでもないくらい暑くなってきましたね。

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”いまさら聞けない!仏教ってどんなもの?”シリーズ始めます!

何回やるもか内容もまったく考えていません!(大丈夫か?)

気ままにやります。出たとこ勝負!

 

その1

【仏教って何ですか?】

これを知らなきゃ始まらない!

 

毎度のことですが、先に断っておきます。完全に主観です。

 

では、お付き合いください。

 

目次

 

仏教のイメージ

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みなさんは仏教にどんなイメージを持っていますか?

 

宗教、仏像、お寺、お経、哲学、念仏、修行、坐禅、葬式、お墓参り、お坊さん etc.

 

私もこれらのイメージ持ってます。

多くの人は古いもの、法事の時に行くところのイメージが強いのではないでしょうか。

つまり、日常生活と離れたものというイメージです。

そんな現状に危機感を抱いたのか、そうでないのかわかりませんが、仏教関係者の中には、それぞれの発想を活かしアクションを起こしている人もいます。

いわゆる坊主丸儲けの時代は終わりました。現在、日本全国の寺院は転換期を迎えています。しかし、多くの場合はなかなかうまくいかないのが現実だと思います。

 

それはなぜか。

私は寺院側(寺院側と言いましたがとりあえず私です。お寺の人がみんな思っているわけじゃないです)と世間一般の仏教に対するイメージのずれが原因なのではないかと思います。根拠のあるデータがあるわけではないですが…

 

ずれというのは多くの人が仏教に「非日常性」を感じていることです。

仏教関係者には仏教が日常ですから当然のずれですね。しかし、このずれが世間と仏教の溝を深めていては問題です。

だって食わず嫌いはもったいないでしょ?昔は嫌いだったけど今は好きとか、食べてみたら意外とおいしかったとか、やっぱりまずかったとかあるじゃないですか。

今まで食べる機会なかったなら、今がちょっと食べてみる機会ですよ!

 

一応私のイメージも書いておきますね。

私は仏教は生き方だと思っています。そして、お寺は布教の拠点です。

例えば、法事もお墓参りも布教の一側面です。実際は結婚式もするし、お祭りもします。

観光地になっているお寺だとお坊さんが案内してくれるところもありますね。ありがたそうな話を聞いて、へえーって思ったりするわけです(笑)

私が住んでいるお寺には近所の少年少女が毎日のように遊びに来ています。梵鐘(おっきい鐘)撞かせてくださいって言って掌を合わせて鐘撞いていきます。

どれも布教の拠点に当てはまりそうな感じがしますがどうでしょう?

仏教は生き方。私と同じイメージの人いましたかね!

 

何がしたいの仏教

先ほどお寺は布教の拠点と言いましたが、

布教と聞くとなんとなく抵抗を感じる人もいるんじゃないでしょうか。

私は大いに感じるタイプです。なんか生き方を強要されているみたいで、押しつけがましいと思っちゃうんです。押し付けられてると感じたらもう聞く耳なんてないですよね(笑)

 

そんな人たち!

ああしろこうしろなんて強要は一切ありません。

自分で決めてください。去る者は追わず、来るものは拒まずです。

 

仏教は生き方と言いました。

仏教的な正しい生き方というものはあります。殺してはいけないとか、奪ってはいけないとかもちろんあります。

お釈迦さまは戒律を定めてそのように生きなさいと言っています。

お釈迦さまがどのようなことを戒め、またすすめたのかを詳しく知りたい方は、『ダンマパダ』や『スッタニパータ』というお経の訳本があると思うので見てみてください。中村元先生の訳が岩波から出ていますが、中級者以上向けだと思います。

 

いやいや、生き方強要されてますやんと言いたい方、気持ちはわかります。

ただわかってもらいたいのは、お釈迦さまはそれらの言葉を自分に付いてきた者に対して残しています。それは出家した弟子であり、出家はできないけれどお釈迦さまに教えを求めた在家の人々です。

求めた者に答えたんです。クリスチャンを捉まえて改宗を迫るようなことはしません。そもそもクリスチャンはまだいませんでした。

また、教団をまとめるには規律が必要だったんです。現代だって法律がなかったらカオスですよね、それと同じです。

 

 

私たちがなにを信仰していようが関係ありません。

求めれば示してくれるんです。両さんだって、中川くんだって、麗子さんだって、部長だって、寺井さんだって、白鳥だって、マリアさんだって、爆竜大佐だって、ジョディさんだってです。例外はありません。

扉はいつでも開いています。はじめましても出戻りも、いつでも扉をくぐれます。

何トンもある扉に試されることはありません。

 

さあ前置きが長くなりましたが

何がしたいの仏教。

 

ひとりでも多くの人に素敵な人生を送ってほしいんです。

 

お釈迦さまは悟りを開かれたあと、ひとりでも多くの道に悩む人に教えを説くため、生命の尽きるその時まで旅をされました。

日本の各宗派の祖師方も自分に伝わった教えを守ってこられました。そうやって受け継がれてきたものが、しょぼいわけないじゃないですか(笑)

 

素敵な人生のヒントが眠っているはずです。

 

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結局何ですか仏教

 どうやら仏教のスタンスは実は結構身近なもので、ちょっとは知っておいてもいいかという気がしてきましたね(?)

 

それでは仏教的な生き方がどのようなものか、少し触れてみますか!

小難しいことはなしに素直な心で見ていきましょう(笑)

 

 

ではまず、基本からいきましょう!

 

仏教という言葉の意味です。

ずばり、仏の説いた教え、仏になるための教えです。

 

まあそのままですね!

 

次に、仏とは誰でしょうか!

ブッダのことです。ブッダ仏陀と表記します。意味は悟った人です。

つまり、悟った人はみんなブッダです。お釈迦さまも悟った人のなかの一人ということですね。

 

そばかすの少年「なるほど、じゃあ仏教は悟った人が説いた教えで、悟るための教えなんですね!」

私「その通り!」

そばかすの少年「悟るっていうのはどういうことなんです?真実はいつも一つってことですか?」

私「いい質問だね!じゃあ悟りについて簡単に説明しようか!」

 

 

悟りですね~。

しばらく前に悟り系男子とか悟り世代なんて言葉が流行りましたね。あれはどういう意味だったんでしょうか(笑)

 

それはさておき…

悟りとは、

迷いの世界を超え、真理を体得すること。

 と岩波仏教辞典(370ページ)に書いてありました。なんだかわかるようなわからないような感じです。

 

迷いの世界はなんとなく、私たちが生きているこの世界かな~という気がしますが、真理って何でしょう?

 

困ったら岩波仏教辞典です。

すみません!よくわかりませんでした!(595ページ参照)

 

まことのことわりって言われても、そのままやないかい!

とりあえず私的解釈で正しい生き方としておきたいと思います。(みなさんの解釈教えてください)

 

まとめてみましょう!

 

悟りとは、

私たちが生きている迷いの世界(悩みが尽きない世界)を超えて、迷うことのない正しい生き方を身につけること。

 

仏教とは、

悟った人が教えてくれる正しい生き方であり、自分の悩みを乗り越えさせてくれる教え。というところでしょうか。

 

どうでしょう。だいぶわかりやすくなりましたね!

 

次回予告

いかがだったでしょうか?

キリがいいのか悪いのか、今回はここまでにします。

次回は仏教誕生秘話というと大げさですが、どのように仏教が起こり広まっていくのかを書いていこうかな!

 

 

それではまた!ごきげんよう(^^)/

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

仏教的に見るオンラインの世界

みなさんこんにちは。

ちょっと長いですがしばしお付き合いください! 

 

いきなりですが、新型コロナウイルスという言葉をはじめて聞いてから随分経ちましたね~

2020の上半期はこのウイルスに翻弄される形になり、私たちは生活のいろいろな場面で影響を受けましたね。

 

この数か月でいろいろな言葉が流行りました。

  • 新しい生活様式
  • コロナ禍
  • アフターコロナ
  • withコロナ
  • ステイホーム
  • おうち時間
  • テレワーク 
  • オンライン飲み会 etc.

 

 

今回は「新しい生活様式」と「オンライン」について仏教的に少し考えてみたい思います。

私たちはコロナを通して何を考えないといけないのでしょうか。

 

一緒に探してみませんか?

 

目次

 

 

 

1.オンラインの恩恵

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オンラインとはインターネットが接続している状態を指します。

そんなん知ってるって?一応ね(笑)

 

私たちの社会はコロナ蔓延以前からネットなしには回らない社会でした。

インターネットほど便利で生活を楽にしてくれるものはないのではないでしょうか。

オンラインの恩恵はずばり便利なことですね。

現代人は忙しいとよく言いますが、私もその通りだと思います。ショッピングや飲食店の予約、会議など何から何までオンラインで解決できる世の中は忙しい現代人にとって強い味方と言えそうですね。

 

遠くにいる友達や家族とも手のひらサイズの四角い奴があれば声も聞けるし顔も見れるなんて革新的ですよね。ステイホームしていても何でもできちゃうんだからすごいと思いますわ。

 

SNSを利用している人も相当いるんじゃないでしょうか?

だれでも情報を発信しやすくなって、ユーチューバーって職業が余裕で成立するし、夢はユーチューバーって子供も増えてるみたいです。

なんなら大人もユーチューバーになりたい人増えてるんじゃないかな。

 

コロナ禍で芸能人のYouTube進出もすごかったですね。

いろんな人が参入してきて混沌してるよな印象もありますが。

 

近い未来、インターネットの恩恵が当たり前すぎてもはや恩恵とも 感じない世代の時代がやってきそうです。

 

 

小学生とかちっちゃい子がこれ読んでるとは思わないけど、ユーチューバーはやめとき!君らがでっかくなるころには衰退してると思うよ。

まあ全部読むころにはやめとこって思ってるかもね('Д')

 

恩恵でもなくなってしまいました………次!

 

2.オンラインの危険性

 

おそらくみなさん予想してると思いますが、こっちが本題です。

いろんなところでニュースにもなってますね。

 

まあ、私が改めて言うまでもなく多くの人がネット社会の怖さや危険性を知っていると思います。

が、この機に改めてどんな怖さがあるんでしょうか。

 

  • SNSなどでの個人に対する誹謗中傷
  • 真偽の分からない情報の錯綜
  • 勘違いや誤解を招きやすい
  • オフラインになった時の脆さ

 

・・・あれ?あんまり思いつかない。細かく分けるともっとありそうですが、まあいいでしょう。

 

たぶん今挙げた4つが大きな問題になってる ところだと思います。

あと現代人は忙しいって言ったけど忙しくしてるのもインターネットじゃないかな。

せっかくネット使って効率化してできた隙間にどんどん詰め込むから。そりゃアップアップしますわ。

 

そしてやっぱり気になるのは誹謗中傷と脆さでしょうか。

これこそあえて説明するまでもないですかね。

誹謗中傷なんてね言う側も言われる側も幸せにならないです。

地震とかで電気落ちたらどうすんの生きていけんのって話ですもん。

 

そうです!ソフト面もハード面もネットに頼りきってたら命にかかわります。大げさでも何でもなく、現実に多くの命が失われているのは周知の事実です。

私たちはネットの恩恵を受けるために命をかけているんです。現時点では他人事だと思うかもしれません。しかし、自分のことになった時には手遅れなんてことも。

 

だいぶシリアスな話になってきましたね…

 

完全に余談ですが、オンライン飲み会についてどう思いますか?

私は合わないな~って思ってます。部屋で四角い板に話しかけながらお酒飲むのはなんか違和感があって。やっぱり空気や空間を共有してなんぼかなと。

みなさんはどうでしょうか。流行りに乗ってみたものの乗り切れないなって思う人もいるんじゃないですかね。逆にめちゃくちゃ楽しいという人もいると思います。

オンライン飲み会楽しんでいる方はぜひコロナが収束してからも定期的に開催してみてください。やっぱりリアルがいいのか、オンラインの方がいいのか検証して教えてほしいです。純粋な好奇心であって皮肉じゃないですのであしからず。

 

 ここまで仏教的要素のないまま来ましたが、なんとなくいいところとそうじゃないところが見えてきた(?)と思うのでそろそろ仏教にご登場願いましょう。

 

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3.仏教の登場 

 

さあ、いよいよ仏教の登場です。

仏教はネット社会の現状をどのように分析できるのでしょうか。

佐々木閑先生の著書『ネットカルマ』を参考に考えていきます。こちらの著書は2018年に出版された比較的新しいものです。興味のある方はぜひ一冊お手元に。

 

 

仏教的に見る世の中のしくみ

まず前提としてこの世界は因果法則によって成り立っています。

すべてのものは原因があって生じるってことです。縁起とも言います。

私たちの悩みの種は苦しみです。非常にリアリストだったお釈迦さまは、世の中は苦しいことで満ちていると考えました。

四苦八苦という言葉をご存じでしょう。お釈迦さまは世の中の苦しみを8つに分類しました。総じて言えることは、人は思い通りにならないと苦しむということです。

 

欲しいものが手に入らないと残念な気持ちになるのも苦しみですし、嫌いな人に会わないといけないのも苦しみですよね。愛する人と別れることも苦しいです。

すべて自分の思い通りにならないから苦しいのだとお釈迦さまは言うわけです。ここに気づくとは、さすが心のスペシャリストです。

 

苦しみから解放されることが仏教の命題です。

 

解放されるといってもそれは死によっては成り得ません。仏教の世界観は六道輪廻ですので、現世で命が尽きればまた六道のどこかで生を受けることになります。

六道を補足しておくと

天道 

人間道

修羅道

畜生道

餓鬼道

地獄道

以上の六つの道です。

天道と浄土は違うのでご注意を。浄土は輪廻から解放されている世界です。

ですが天道は輪廻の中にあります。なので天道にも死があります。神木隆之介さん主演の映画『TOO YOUNG TOO DIE  若くして死ぬ』にもそのようなシーンがあります。まあもし見るならギャグ映画として楽しんでください。仏教の教えを正しく扱っているものではありません。脱線しました…

 

話を戻します!

小さい時、悪いことしたら地獄で閻魔さんに舌引っこ抜かれるぞってさっちゃんが言ってましたよね。それです!(さっちゃんはあなたの幼馴染で、おばあちゃんと毎日墓参りに行っているおばあちゃんっ子だと思ってください)

f:id:Gohou:20200603172258j:image(さっちゃんの元ネタは西森博之さんの『鋼鉄の華っ柱』からです。面白いから読んでみてね!)

 

では、六道輪廻の中を生きる私は死んだらどの道に行くんでしょうか。私の死後の行き先はだれがどうやって決めているんでょう。

 

さっちゃんと喧嘩した時をよく思い出してください。

「あんたなんか地獄に落ちちゃえ」

嘘ついたら地獄に落ちるっておばあちゃんが言ってたんだから」

と言っていましたね。

なるほど、落ちるんです。落とされるのではなく落ちるんです。

そして、地獄に落ちるのは自分が嘘をついたからです。

 

仏教ではこれを因果応報や自業自得と言います。

人間は自分のした行為の報いを受けるのです。なんとなく因果応報も自業自得も悪い報いを受けるようなイメージがありますが、そんなことはありません。

 

例えば、桜木花道はバスケット初心者でしたが、ジャンプシュート二万本合宿を成し遂げて、最後には逆転ブザービーターで勝利を飾ります。

これも自業自得です。努力が勝利という結果を生んだんです。

もし負けたとしても、努力の報いを受けるでしょう。

 

業(ごう)という言葉が出てきましたが、行為という意味です。インドの言葉でカルマといいます。以下カルマという表記で書きます。『ネットカルマ』のカルマです。

 

カルマとネットカルマ

ネットカルマの前にカルマについてもう少し触れてみましょう。

先ほどのさっちゃんや桜木の例からも分かるように、カルマの考え方は案外私たちの生活に根付いています。

それに伴って問題もおこります。カルマの考え方の誤用です。

本来カルマは、自業自得の言葉からわかるように、自分のカルマの報いが自分に現れるという性質です。

それを誤解してできた言葉が「親の因果が子に報う」です。今ではあまり聞いたことのない言葉かもしれません。

 

たっちゃんを思い出してください。(たっちゃんはお父さんがギャンブルで多額の借金をしてあなたの近所に引っ越してきたいつもいじめられてる子だと思ってください)

 

 

たっちゃんは高校生になっていました。お父さんは相変わらずで、さらにはアルコール依存症になっていました。

たっちゃんは大学をあきらめ、就職活動をしています。

 

ある日の面接で、

「お父さんは何をされていますか」と聞かれて、答えると…

 

「そんなだらしない親がいるのでは会社の品位を損なう」と言われました。

学校に帰って先生に報告すると

「お前の父親がそんなだからおまえに報いがくるんだ。因果応報だ」と言われたと言って泣いていましたよね。

 

どこが応報なんでしょうか。実刑判決の出た人の代わりにおまえが求刑されろと言ってるようなものです。

たっちゃんはその後先生になって生徒からも父兄からも人気だそうです。

たっちゃんの先生は飲酒運転で事故を起こして免職になったそうです。

 

カルマ法則の誤用は時として人の心を傷つけてしまいます。

さらにはそのカルマによって自分に報いがくるのです。

 

どうでしょう?恐ろしいでしょうか?

いやいや、じゃあいいことしてればいい報いがくるんでしょ。簡単じゃんという声が聞こえてくるようです。

それは、イエスでありノーでもあります。

エスというのは、そのままです。いいことのカルマが報いれば一時的に幸せを得られるでしょう。

ノーというのはどういうことか。仏教は苦しみからの解放を目的としています。いいことのカルマであってもカルマが生じてしまえば、それは輪廻の中の出来事で、本質的な解放にはなりません。

 

ワンピースで例えましょう。

模範的な海賊(奪う、殺す、意味もなく暴れる)をしている黒ひげは海賊として幸せに航海しています。しかし海賊王にはなれないでしょう。

一方、ルフィは模範的な海賊とは言えません。略奪や殺しをしていませんからね。

行動はいつも本能に従ったものです。しかし周りに人が集まってきます。これはルフィが打算で行動していないからではないでしょうか。

そして、海賊はこうあるべきにとらわれず冒険をしているルフィは海賊王になるでしょう。

 

海賊の世界が輪廻の世界、海賊王は歴史のすべてを知った人であり、輪廻から解放された状態と思ってもらえればなんとかわかるかな。(笑)

一般的に見て一番海賊っぽい黒ひげじゃ最高のポジションには到達できないんですねー。

例えることでより分からなくなるという悪い例かもしれません…

 

カルマの法則がなんとなくわかってきたでしょうか。

 

佐々木先生の著書にカルマ法則のまとめがあるので紹介します。

1 人がおこなった善悪の行為はすべて記録される

2 記録された善悪の行為は、報いとして現れるまで保存され、いつか必ず当人に報いが現れる

3 どのような形で報いが現れるかは予測できず、原因になる善悪の行為から報いを推測することはできい 

 おおよそこんな感じです。

要するに、どんな形にせよ行為の報いは本人が受けて、報いを受けるまで記録されてるから逃げられないよってことですかね。

 

カルマの法則はお釈迦さまの時代のインドではスタンダードな世界観でした。

現代日本では感じにくいことかもしれませんね。

 

「お天道様がぜんぶお見通しだよ」

と言っていたのはやはりさっちゃんくらいでしたが、当時はこのお天道様がカルマの記録媒体だったわけですね。

 

じゃあ今は…?

 

さあ、ピンときましたか?

 

2500年前から現代に残りながらも薄れつつあったカルマ法則の復活劇はネットによってなされているんです。

お天道様という人の心の温もりがあった記録メディアは無機質な監視カメラになって私たちの行為を絶えず記録しています。

 

ネットカルマがどういうものか想像ができてきたでしょうか。おそらく皆さんの想像の上を行くシステムになって復活しています。サイヤ人が死にかけてから復活してパワーアップするようなもんです。

 

そのパワーアップを加速させるのがIoTです。Internet of Thingsが進めばテレビやエアコンなど身の回りのものが常に私の状態を記録していることになります。佐々木先生はドライブレコーダーを例に挙げています。運転中のトラブルへの備えとして、多くの車が搭載しています。そこにはトラブルがあろうとなかろうと運転中の自分が記録されていきます。そのうち、日常のトラブルへの備えとしての何かも流行ることになるかもしれません。それこそスカウターのようなものが。

 

実際スカウターという記録メディアによって、ラディッツの死を知ったベジータは地球に襲撃しました。

コロナ禍で起こった他県ナンバー狩りも同じです。

SNSで道の駅に他県ナンバーの車があると誰かが発信して、受信した人の中の誰かが衝動に駆られて道の駅を襲撃する可能性があるわけですから。

 

AIもすごいです。インターネットの使用履歴から、本人しか知り得ない趣味、嗜好を読み取ってしまいます。

監視カメラ、IoT、スカウターとネットの中にいる以上はどこにいようがこの監視システムから逃げることはできません。今日はお忍びで!なんてことは一切できません。記録されることを拒めないのです。

 

さらに、ネットにはお天道様の温もりはありません。現在はネットモラルの広まりやトラブルを避けたい管理者、ユーザーによる通報機能などによってなんとか歯止めをきかせている部分もありますが、ネットには人間味がありません。

人間が悪意を持って情報を操作すれば、根も葉もない非難にさらされてしまいます。

 

ネットカルマにはお釈迦さまの時代のカルマとの大きな違いがあります。

それは、記録が消えないことです。そもそものカルマ法則では報いが現れたらその原因のカルマのエネルギーは消えます。しかし、ネットでは消えません。

昔につぶやいた誰かの悪口が何かのきっかけで、掘り返されて非難の対象になるかもしれません。

もし掘り返されたなら、自分ではない誰かの仕業でしょう。その誰かの悪意によって情報は歪み、自分のカルマよりも重い報いを受けることになりかねません。

 

店員に土下座させた映像を流してしまった人がいましたね。

もちろん、その人は悪いことをしました。それは報いとなってその人に現れるんです。ネットにアップして消えないカルマの記録にしてしまったために炎上し、どこの誰とも知らないから非難され続けます。やっと落ち着いたころに同じようなことをした人が炎上すると、飛び火してまた非難されます。

ずっと苦しむことになります。地獄ですかって感じでじゃないでしょうか。

 

ネットカルマのことがなんだか分かってきましたね。

カルマ法則とネットカルマは似ている部分もありますが、記録媒体と実例を考えるとネットカルマの方が怖いなと思います。

みなさんどんな感想をお持ちでしょうか。

4.ネット社会をどう生きるか/新しい生活様式

 

ちょっと深呼吸…ふぅぅ~

現代に戻ろうか!

 

ネット社会のなかで私たちに求められる新しい生活様式とは一体…?

 

さっちゃんはネットなんてやめればいいって言いそうだね。(笑)

できる人はいいさー。できないから困るんだよって。

 

どうしましょ。

パッと考えてみましょ!

 

① 適切な距離をとる(できるなら一番よさそう)

②悪い書き込みをしない(善悪の基準って人それぞれだよね)

③いいね👍をたくさんもらって幸せな気持ちになる(さっきの黒ひげパターンだね)

④気心の知れた中だけで利用する(これは結構みんなやってるんじゃないかな。配信で収益上げてる人はむずかしいかも)

⑤ネットがいらない趣味を作る(効果ありそう)

 

とりあえず思いつくままに書いてみました。

みなさんどうですか?これだ!ってやつがあれば教えてくださいね!

 

さて、仏教的にはいかがなものでしょうか。

今回は修行して煩悩を払えとは言いません(笑)

 

パターン1。

善悪を正しく判断できるように訓練する。

善悪の正しい判断なんて簡単だって思います?

その判断ができないほど私たちは危機的状況になりつつあります。動画の不正アップロードが後を絶たないのはなぜでしょう。アカウントが止められたらまた新しく作ればいいですか?悪を悪だと思えなくなってきているのではないでしょうか。

カルマは、心に念じる、口に出す、行動にするという三段階のパターンです。念じる前に、口に出す前に、行動を起こす前に考えてみましょう。それは自分の幸せのためになるか、相手の幸せのためになるか、誰かの幸せのためになるか、みんなの幸せのためになるか。これをクリア出来たらまず悪ではないと思います。

 

パターン2。

少欲知足です。

仏教の言葉で、足るを知り、欲を制御しなさいということです。

苦しみは思い通りにならないことから起こるという話をしました。思い通りにならないこと思い通りにしようとする心から欲が生まれます。

少欲知足。思い通りにならないことを知り、必要以上に求めない心養うということです。

 

パターン3。

思い切って価値観を改める。これですね!これが素晴らしい。今一番チャンスがきてる方法だと思います。正しいものの見方を身につけるという教えです。

 

コロナ禍において、新しい生活様式って発想を国が示しました。これまで当たり前だったことが当たり前じゃなかったことに気づきました。今の状況をなんとかしたいと思いました。自分の価値観を見つめなおすチャンスです。

ネットカルマのシステムをぶち壊してくれるヒーローを待っていても来てくれません。でも自分の凝り固まった価値観をぶち壊してくれるヒーローはいます。自分自身です。ダンマパダというお経にこのようなことが書いてあります。

 

この方法はネット依存気味の人向けですね。簡単に言えば、ネットの住人から現実の住人になろうってことね。きっかけが欲しいって?きっかけは、今変わろうと思ったから!それで十分でしょう。

いいね👍の数や嬉しいコメント、むかつくコメントで幸せ(仮)になったり、不幸(仮)になったりするのを克服して、現実での幸せのためにネットをコントロールするように意識してみる。

 

 

 

なるほどなるほど、人によって処方箋が違うことがわかってきました。

自分に合った処方箋を見つけないといけませんね。

 

 

5.加害者と被害者とどう向き合う

 

ネットカルマの被害にあっている人はすでに大勢います。

店員に土下座させた動画をアップした人はその時点では加害者です。店員に対する名誉毀損か営業妨害か暴行罪かはわかりませんが犯罪行為に間違いありません。

しかし、それが炎上することでたちまち会ったこともない人たちから非難を浴びせられ被害者になります。罵声を浴びせることが正義かのように叩かれます。

おそらくここで罵声を浴びせた人たちも名誉毀損に当てはまるのではないでしょうか。

 

いずれにしても、一度の過ちを以ってその人の人格を決めつけ、否定するのはいかがなものでしょうか。正しく善悪の判断ができているとは言えません。

 

自分の失敗は隠したいけど、他人の失敗は気になってしまうのが人間です。

慈悲の心を育て、他者をゆるし、慈しみ、自分を整えることが大切です。

 

じゃあ犯罪者もゆるすんですか?という声が聞こえるような…

はい。ゆるします。

きれいごとでしょ?と追い打ちがきそうです。(笑)

そうかもしれません。

 

緋村剣心が言ってましたね。

「剣は凶器。剣術は殺人術。どんなきれいごとを並べてもそれが真実。だけど拙者は真実よりも、薫殿の甘っちょろいきれいごとの方が好きでござるよ」って(細かいセリフわかりませんすみません)

 

まあ実際ゆるさないときついと思います。

 

けーちゃんを思い出してください。(けーちゃんはあなたと試験会場で会った仲間で、家族や仲間を犯罪者集団に殺害されて復讐を誓っています)

けーちゃんは敵を討つことが人生の目的なので、なんだかいつも余裕がなくて辛そうです。

 

一方、ひーくんはどうだったでしょう。(ひーくんは右手にいつも包帯を巻いてるあなたのライバルで生まれてすぐに男だったから捨てられて自分を捨てた集落に復讐しようとしてた)

ひーくんは自分を捨てた集落に行くも、集落に対する幻滅を以って復讐とした。これは自分が前に進むためのゆるしだったんじゃないかな。その後は双子の妹を陰ながら大切にしながら、生きたいように生きてます。

 

自分が当事者だったらどうでしょうか。

私はゆるせる人間でありたいです。

 

 

6.終わりに

 

いかがでしたか?

いろんな漫画がでてきましたね!そこは本題ではないですが(笑)

 

 

樹木希林さんの最期の映画『日日是好日』のなかに出てくるセリフを紹介します。

 

「死は、いつか来るものではなく いつでも来るものなの」

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 お釈迦さまが説いた無常の理を言い表いしています。

同じように繰り返す日常でも全く同じ瞬間は二度と来ないですよね。

 

コロナ禍ではオンラインが命綱になっています。

じゃあ首都直下型地震が起きて、電気系統がマヒしてオンラインが絶たれたら。

 

自分のよりどころ自分自身です。

ネットはいざという時、助けてくれません。

 

また、大人としてこれからインターネットに触れる子供たちに正しい使い方を教えていく責任があります。しっかりと伝えていきたいと思います。

 

説明を忘れてるところはなかったでしょうか。

あったらこっそり教えてください(^^)/

 

では、今回はこの辺で。

よければみなさんの考えも教えてほしいです。

それでは、ごきげんようさようなら。

 

 

 

 

参考:『ネットカルマ』佐々木閑 著

 

 

般若心経ってどんなお経?


 

いつかやりたいと思ってました摩訶般若波羅蜜多心経の概説です。

ゆるーく気分転換にでも読んでください。

 

 

 

はじめに

はじめにお断りしておきますが、個人の解釈であり、学術的なものではありません。
異論はある前提です。笑

明らかな間違いは指摘してください。

 

おそらく皆さんは

般若心経って名前は聞くけどどんなこと書いてあるん?

という誰もが一度は思ったであろう疑問を持ってここに来られたと思いますので、

ここではなるべくわかりやすくをモットーにその疑問に答えていきたいと思います。

お付き合いください。

 

ではさっそく、


1、そもそも般若心経ってなに?

 

はい、仏教のお経です。

仏教は、バイブルやクルアーンのように唯一の聖典を持つ宗教ではありません。経とはお釈迦さまがおっしゃった教えを聞いた弟子がそれらを文字にしたものです。 

後代になるとお釈迦さまが直接おっしゃっていないことも示されたお経が出てきますが、これらは厳密には偽経といいます。

しかしながらそれらも仏教にとって重要な書物でありますから、広い意味ではお経と言って差し支えありません。

ちょっと詳しく説明すると、仏教は伝統的な上座部仏教(スリランカとか)と大乗仏教(日本とか)とに分類できます。
その後者大乗仏教般若経シリーズの中の1つが摩訶般若波羅蜜多心経になります。

もともとはインドの昔の言葉で書かれたもので、今日日本で親しまれてるものは、あの西遊記で有名な玄奘三蔵法師が漢訳したものなんですよ〜。名訳と言われています。

 

2、どんな内容なの?

 

大乗仏教の「空」(kuu)の教えを説いたものです。

登場人物は観音さんと舎利子というお釈迦さまの優秀なお弟子さんの2人です。

観音さんが舎利子さんに大乗仏教の教えを説いていくという流れです。なんですが、注意してもらいたいところがあります。

 

大乗仏教はお釈迦さまが涅槃に入られて(亡くなって)から発生していますので、実際にあった話ではなく大乗仏教者による創作です。

 

ポイントは舎利子さんはお釈迦さまの時代の人だということと、観音さんは大乗仏教の代名詞のような菩薩さんであることです。

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観音菩薩立像@洞光寺の池



つまり!

観音さんが、お釈迦さまの教えをいちばん理解していた舎利子さんに新たに生まれた大乗仏教の教えを語る図式になります。

ややこしいですね!

ワンピースで例えるなら、古参のレイリーに新興勢力のルフィが海賊王の何たるかを語るようなものですね。

他にいい例えを思いつきませんでしたごめんなさい。

f:id:Gohou:20200601034336p:plain画像】ワンピースのルフィーのイラストを集めてみた - NAVER まとめ

言い換えれば

元祖海賊王派に新海賊王派(まだなってないけど)が真理を語っているってことです。

仏教で言えば、元祖海賊王派が上座部仏教、新海賊王派が大乗仏教に当てはまります。

 

前置きが長くなりました。

これからが本題の般若心経の訳もどきです。

はじめにも言ったように学術的なものではありません。語学的ではなく感覚的なものですので、話半分に読んでください!

 

3、摩訶般若波羅蜜多心経を読んでみる

 

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観音さんは奥深ーい智慧を完成させる修行をなさり、

私たちの世界は、お釈迦さまが言う通り、物質と心の働きという構成要素によって存在しているけれど、それらには本当は実体がない。それらはであることを発見されました。

そうして悟られた観音さんはすべての苦しみを超越したステージに行かれました。

(修行してたらお釈迦さまの教えを超えちゃったのです。お釈迦さまがあると言っていたものが本当はないとわかったから。)

 

観音さんは舎利子さんに以下のように言います。

(お釈迦さまより優れた悟りを教えてあげよう)

 

私たちの世界を存在させている構成要素はすべて仮設定されたもので、実際は実体がありません。

舎利子さん、すべての事物はそれ自体だけでは存在していません。だから、それ自体だけとして生じることも消えることも、汚れることも清らかになることも、増えることも減ることも本質的にはありません。

(椅子で例えると、椅子はそれ自体で存在しません。私が坐ることで椅子になります。上に立てば台になります。

それを椅子だと認識する人がいてはじめて椅子になります。認識する人がいなければ椅子ではありません。再びややこしいですね。)

 

実体があるように感じても、それは錯覚なのです。

つまり、この世界の中でそれ自体だけで存在するものはないのです。

煩悩もなく、煩悩のが尽きることもないのです。実体がないことにも実体がないのです。

お釈迦さまが説かれた教えすらもすべて仮初の姿なのです。

 

菩薩(大乗仏教の修行者)は、智慧によって心に波が立ちません。菩薩は心に波が立たないので、不安や不満がなく、煩悩から抜け出したステージに入った人なのです。

 

過去、現在、未来におられる仏さまは奥深ーい智慧によってこれ以上ない正しい悟りを得られたのです。

 

智慧の完成たる般若波羅蜜多は大いなる悟りの呪文にして、最上にして唯一無二の呪文なのです。そしてすべての苦しみを取り除く呪文、それは偽りのない真実です。

(般若心経は実は呪文だったんですね〜、どういうことでしょうか。

とりあえず般若波羅蜜多を褒めちぎっています)

 

般若波羅蜜多において説かれた素晴らしい呪文は以下のよう。

羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶

ぎゃーていぎゃーてい はーらーぎゃーてい はらそうぎゃーてい ぼーじーそわか

(まさに呪文ですね!この短い部分が般若心経のメインです)
この素晴らしいお経は般若心経といいます。

 

 

つまりどういうことっすか?

 

ほんと、どういうことっすかね。笑

訳して読んでもすんなりわかる内容じゃありませんでした…

 

まあでも、般若心経がお経のなかで言っていることは極めてシンプルです。

「世の中すべて空だ」と言っています。じゃあ空ってなに?って話ですね。

空は無とは違います。空は有でなく無でない状態です。

空とはとらわれない、かたよらないことだと言われているのを聞いたことがありますが、なるほどそうかもしれません。

有でなく、無でないなんてつかみどころがないですね。

一体それはどういうことでしょうか。

 

例えば、私がいます。

私は頭や手足、筋肉や骨や臓器でできています。どのパーツが私なのでしょうか。頭でしょうか。頭があっても体がないと生きていけません。どうやら頭だけでは私とは呼べなさそうです。

すべてのパーツがそろって私になります。しかし、よく観察してみると、私の本体はないことに気が付きます。

本体はないから有でない。でも確かに私は事象として存在しているので無でもない。

これが空の状態です。仏教は論理的ですね。

 

俗っぽく解釈すれば、

俺たちの不安や不満、苦しみ、さらには喜びまでも本質的には空なんだよ。移ろっていくものなんだよってことになろうかと思います。

 

 

 

 

4、結局読んで意味ありますか?

 

はい、ごもっともです。

ちょっと難しい話になりますが、

お釈迦さまの時代の仏教というのは、出家して特別な修行をした人が苦しみから離れられるステージに行けるという敷居の高いものでした。

出家をしてない人は救済されません。

取りつく島はありません。

それを出家者以外も広く救済していこうとしたのが大乗仏教です。そして、その広告塔になったお経が般若心経というわけです。

なので般若心経を書いたり読んだりして、お経に触れ合えば、そのことによって生まれたエネルギーが自分を救ってくれるかもしれませんね!

 

現在般若心経は最も有名なお経ではないかと思います。

日課に読まれる方も写経される方もたくさんいらっしゃいます。これからやってみようと思ってる人もあるかもしれません。

意味をわかってなくてやって意味あるのか?と思うこともあろうかと思いますが、

意味あります!

呪文ですから!神秘の言葉ですから!

般若心経に触れた報いが来た人にしか本当のところはわからないですがね笑

 

般若心経以外のお経では、漢訳がそもそも音訳であり、漢字からはさっぱり意味の分からないものも多いです。

なぜ昔の人は意訳じゃなくて音訳したのでしょう。原文の意味が分からなかったのでしょうか。いやいや、そんなことはないでしょう。笑

神秘の言葉として音が重要視されていたことが想像できます。

当時の仏教を信仰する中国や日本の民間人がインドの音のお経を理解できたとは思えませんが、お経は今日まで伝わっています。

それだけ大事にされる力がお経にはあったのかもしれません。

 

信じるか信じないかはあなた次第ということにしましょう。笑

 

さてさて、

書きたらないところも余計なこと書いたところもたくさんありますが、これ以上収集がつかなくなると困るのでこの辺で終わっときます。

 

ということで、訳と言うより概略のようなかんじになりましたけど以上です。

 

冒頭にもあるように、あくまで個人の解釈で、自分が人に説明するならこうかなっというスタンスで書いております。

特定の宗教や団体の思想を強要したり批判したりするものではありません。

 

お目汚しでしたm(_ _)m

 

さようなら、ごきげんよう

f:id:Gohou:20200601041706j:plain

玄奘三蔵@インド

 

 

参考: NHK100分de名著 般若心経 佐々木関 著、岩波仏教辞典第二版